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白い夏と緑の自転車 赤い髪と黒いギター(2002)

今日紹介する音楽のジャンルは異なるのだが、あれはもう、今から9年前になってしまうのか。夏の終り、コンサート会場で配られたアンケート用紙に、こんなような一文を書いた覚えがある。

「暑苦しく歌うのと自己主張ある歌い方というのは似ているようで全然違う」

あれは、歌い手の個性を殺す歌い方だと思ったんだよなあ(苦笑)
当時の私は20代前半で観る場数それほど踏んでいない。2000年から2001年に「観たい時は観る時だ」と観倒した、その入口に立った時期(1999年)だから。その上での判断ではあるんだけど、それでも「あれは違うなぁー…、薫ちゃん」と半分怒りまじりに思ったのだ。
個人的に、「この人"シャウト"が生きる人じゃない」と睨んでいたんだわ。
なのに、「俺の歌を聴け」と主張するが如くステージ上で暑苦しくシャウトしまくる。押しまくる。引きを知らない。それが暑苦しく、鬱陶しく思った。
過渡期だといえば過渡期、実験なのだといえば実験だと言える。歌うたいとして模索の時期にあった言動だろうし、サウンド的に求められているところではあったろうと思う。
だけど、彼(まあ、白状するとThe Gospellersの黒沢さんなんだが)に関しては「シャウトしなくとも、この人の声は前に出る」というのがキチンとあった。しかもシャウトが生きる人が同級生(村上)にいただけに「何故に薫ちゃんは、こうも暑苦しくシャウトばっかすんの?」というのを感じてた。というわけ、しかもライブの最中から(自爆)
それが、かの「FIVE KEYS」ツアーも通算2本目、神奈川県民会館でのライブ中に心が冷え倒した原因、の一つなんだろうなぁ…(嘆息)

本題。
the pillowsの山中さわおも、曲の中で、シャウトする。
だけど、そのシャウトは、その曲がシャウトを欲するところで出る。シャウトが"シャウト"として生きているのだ。
要は自分の中から迸る感情を、時には心の叫びを、言葉では伝えづらい感情を、シャウトするところでキッチリ"シャウト"という形にしていると思う。
けれども、杓子定規にシャウトすればいいんではない。かといって何でもシャウトすんじゃない、というのを踏まえつつ、この人はシャウトする。
それが、ものすごく残るんだ。
「ハイブリッド レインボウ」のサビを思い出してみても。
「白い夏と緑の自転車 赤い髪と黒いギター」の後半も。



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