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FIVE KEYS(1999)

原点回帰(だけど、元の場所に戻ってはいない)。

1999年、このアルバムが出た当時のネット上の状態を今も思い出せる。そして、このアルバムを携えてのツアーのことはより印象深く記憶に刻まれている。この前にもこの後にもゴスペラーズにあっただろう幾多のターニングポイント。そのひとつが世紀末の夏の終り、"FIVE KEYS"ツアー序盤の戸田から浜松までの間にあったんじゃないか?あれから10年経た今も思うほどに。
アルバムが出る毎に前作と今作との違いはどうしたって生じるだろう、が、私が様々な反応をリアルタイムで、言葉という形で目にしたのが、この時(1999年夏の初め)だ。それは自分の持つ人との繋がりに「ゴスペラーズの音楽が好きな人」の流れが新たに出来て来たからわかったことでもあるし、また、ネット上での誰かしらの発言を実際に追ってみてわかったことでもある。
この時、目にしたのは、こういう言葉だった。
「それまでのゴスペラーズと違う」

それまで。それは『Vol.4』までのゴスペラーズ。
ところで。『Vol.4』というアルバムを携えてのツアーの際、ステージを観て私が思ったことは「この人たちはスタレビになりたいのね」だった。
徹底的にショウマンシップにゴスペラーズが走っていた点を捉えて「あ、この人たちはスタレビになりたいのね」発言をこぼしたのだ。2時間半を踊って、ひとたび話をすれば個々のキャラクターが立ってて、でも、歌はしっかり聴かせて(時には泣かせて)スッキリ会場を後に出来る。それに5人が全身全霊を注ぐ。
ゴスペラーズはエンターテイメントに徹している。そう思ったから出た私の「スタレビになりたいのね」発言だったが、悲しい哉、それはゴスペラーズが実際は自作自演出来るミュージシャン集団で、各自が歌うたいの集団だということを私が感じなかったという証左でもある(これには随分と後になって気付かされたわけだが)。

良いメロディーを作り、それに言葉をのせ、彼らが歌う。

この点を踏まえていたら、『Vol.4』も『FIVE KEYS』も大差ない。同じだ。だが垣間見えた「これまでと違う」と思う理由の大元は"サウンド面"にあるのだと思う。
モータウンを想起させるシャッフルビートの"ポップス"らしい楽曲「夕焼けシャッフル」が出たのが1998年だ。その「夕焼けシャッフル」から1年数ヶ月経って出したシングルは、ゴリゴリ"R&B"圧しな「熱帯夜」である(でもって、あのPVだ、あの衣装だ・爆)。アルバムに至ると、かつ同一人物がリード歌っている曲に限定すると、一方が「傘をあげる」、もう一方が「I LOVE YOU,BABY」になるんだぞ<待て。どっち聴いても、彼の才能を認めつつ私はガッツリ固まるんだが(自爆)
どうだろう。この幅振りを彼らからのコメント抜き、音だけ聴いて、どう理解しろと言うのか。理解の前に予備情報を入れたくもなるさ!と予備情報の為に雑誌を開けば「もう料理の話はしない」と言い放つ"最年長"のメンバーがいたわけだよ(起爆)
理解以前、印象を口にしてしまうだろう、これまでと違う。ゴスペラーズは変わった----------
詰まるところ「夕焼けシャッフル」の路線は、アルバム『二枚目』から徐々に強調・補強された路線だ。恐らく、この路線の萌芽はsg.「U'll Be Mine」と睨む(「Winter Cheers!」は正直、世間とポップスとに迎合し過ぎているきらいが、ねえ…)。
ポップス×R&Bが程よく掛け合わさって、彼らの良さも出て、周囲からも好評だった。だから、この路線に線を延ばして行くことにしたのでは。この曲の編曲担当だった田辺さんがその後も起用されるが、田辺さん関与の総決算が『Vol.4』のバラエティさでは。
そして、それを体現したライブこそ前述の、私が「スタレビになりたいのね」と言ったステージ、だ----------

「1st『The Gospellers』の180度向こうに『Vol.4』があるのなら、そこからグイッと針を『The Gospellers』側に180度戻した。これが「変わった」の印象に繋がったのかなぁ…」
"歌っている彼ら"は変わりない。だけど、変わったように見えるのはどうしてだろう。踏まえている点の違い、それが変化の理由に関与しているのなら、それは何だろう。そう考えた時に、こう洩らしたのを今尚、覚えている。

BOYZ II MENやTAKE6を聴いてR&Bをポップにやることを知って、その彼らが辿ったルーツを自分たちも辿ったりを経て、彼らは自分たちのオリジナルの音楽を作る方向に向かった筈だ。
その端緒が『The Gospellers』だったとすると、様々な経験を経て、もう一度、R&Bをポップにやってみせたのが『FIVE KEYS』のように私には映る。
原点回帰。だけど、元の場所に戻ってはいない。
これは螺旋階段をイメージするといいかもしれん。螺旋階段の入口、いちばん下にいたのが最初のアルバム『The Gospellers』なら、螺旋階段を昇ってって『Vol.4』の時に入口の反対側に来た。その後、『FIVE KEYS』で、入口の位置ながら昇ったところに立ってみた。足元、その下がちょうど入口になる。その時、それまでのペースと比べて急ぎ足になった。階段数の分だけ立った位置は上に昇っている。これでイメージ、しやすいですかね…
原点回帰。でも、階段を降りて入口に舞い戻った感が、このアルバムにはないのだ。ちゃんと足は進んでいる。盤全体から、それが伝わってくる。『The Gospellers』を1999年に習作すると、こういう感じになるのかなぁ(嘆息)という言い方も出来るところがまた…、だが(自爆)

だが「侍ゴスペラーズ」→(「星空の五人」)→「或る晴れた日に」と続いた"アルバム序盤で所信表明するスタイル"。これは彼ら崩していないんだよね(苦笑)今回はタイトルチューンがまんま1曲目で「FIVE KEYS」と。
フォーマットは、そう簡単には変わらなかった、というところか。その後も「FRENZY」なんか、わかりやすく出して来ているしね。


FIVE KEYS
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FRENZY(2002)

それは一部であって全部でない。

2001年に起こった「永遠に」「ひとり」『Love Notes』のヒットはゴスペラーズを新しい段階へと導いた。その状況を、日刊スポーツの日曜日インタビューで「それまでがJ2ならJ1にあがった」と村上氏がサッカーに喩えて語っていたのが印象深く、味わい深いところ。
同時に「永遠に」「ひとり」『Love Notes』のヒットと引き換えに植え付けられた有形無形のイメージとの格闘が始まったと言える。
「あれもゴスペラーズだけど、ゴスペラーズってそれだけじゃないじゃんよ」「あれはゴスペラーズの一部、全部じゃない」という奴らの言い分、そんな思惑が透けて見えるアルバムが通算7枚目のアルバム『FRENZY』にある。

プレイボタンを押して1曲目からアップテンポ、アグレッシブに攻める(FRENZY)、攻める(Get Me On)、攻める(ポーカーフェイス)、で、アルバム冒頭3曲が進む。アゲ・アゲ・アゲでイケイケで巻きに巻く。
疾走し大雑把に流れを作って、M-4「残照」に来て、やっとスロウな曲に落ち着く。その勢いのままM-5「誓い」まで聴けてしまう。この並びで来る「誓い」はシングルカット時よりも良く聴こえる。
スロウなの、メロウなの、愛する人に愛してると歌うのが「永遠に」あたりから派生するゴスペラーズのイメージ。なら「そう思う人が多かろう」と睨んで、若干は当てつけ半分で冒頭10分ほどの構成を組んだとしか思えん(苦笑)リリース当時、私は、そんなことを思った。
当時のアルバムプロモーションのインタビュー記事を見て行くと、冒頭からの流れに関してインタビュアーから訊かれるケースが多い。タイトル曲になったM-1(FRENZY)については、特に。実際、そう質問されるし、そうなるだろうと"わかって"、この並びにしたと思う。
------、まー、策士だな(微笑)

『FRENZY』冒頭3曲で、ヒット群がもたらすイメージ=バラードなゴスペラーズのイメージを覆そうとする様は、彼らなりにゴスペラーズを誤解されたくなかったからだと言える。
バラード路線がゴスペラーズじゃねえ、ライブ観たらわかっけどアゲアゲで煽るのだってゴスペラーズなんだ-----
過去も過去、若かりし日の奴らは「バラードで売れるのは(方法論として)わかる。アップテンポの曲で売れたい」と青臭いコメントを残していたように記憶している。が、現実は、その言葉に反してバラード(永遠に)が燻っていた彼らをヒット街道にのせたわけだが(爆)
閑話休題。
「永遠に」「ひとり」『Love Notes』がゴスペラーズの全部じゃない。それは一部で、ゴスペラーズの全部じゃない。誤解しないでくれ。ヒットした楽曲らが持つイメージが働いたから、『FRENZY』序盤を産んだと思う。

それほどまで2001年から2002年にかけての世間は「ゴスペラーズって「永遠に」でしょ」「ゴスペラーズって♪愛してる〜、のあの人たちでしょ」「ゴスペラーズってアカペラやってんでしょ」の声が色濃く、根強く残っている時期だったし、新たに彼らを知った客層は彼らにそれを求めていただろう(アカペラに関してはハモネプの影響も大きかった頃で、容易に想像できる)。
ライブで「永遠に」は歌わないと客席は収まりつかなかっただろうし、「ひとり」をやらない限り恰好つかなかったと言える。
そんなヒットのインパクトが色強く残る2002年の「GT」ツアー、4月初旬、場所は宇都宮、ホールの3階席で軽く頭を抱える会話(北山さんが一番若いと主張する妙齢のオバ様がた2名様!)やら、「ひとり」で会場がシンとする中で大きく手拍子する客やら…。まー、あそこまで首尾一貫、手拍子ばっかするかね!は右斜め前方に置いても(ライブの猛者ほど手拍子しないのを私は知っていた)ああいうの目の当たりにすりゃあ、少々此方の勘が鈍くとも客層が大幅に変わったのを感じるわ。FIVE KEYSの頃に離れた云々どこじゃない(苦笑)
で、「アレは一部であって全部じゃないのよねえ、それ伝わってんのかな」の懸念を上回る「どうだよ… orz」的不安にブチ当たってもうて、ワタクシ、此処で軽くブチのめされる(爆)で「悪いが宇都宮のライブレポートなんて書きたくねえーーーッ!凱旋門の武道館あれだけ書いたからいいだろ、もう!!」と(起爆)
此れら客の言動は話の本筋とは関係ないので終りにして、この頃のライブを観て思った「永遠に」がもたらした呪縛に関して話を続けることにする。ええい。

------、あの時は周囲プラス、自分がネガ思考に片足は膝まで浸かってたから余計に性質(たち)悪く、「永遠に」を歌う彼らを遠くから観ていて「皆にこの曲を歌えるヨロコビ」よりも「ヒット曲を歌わねばならない足枷」を一人、勝手に嗅ぎ取ってしまって軽い鬱を覚えたんだわ…
てのを、今も尚、覚えている。ヒットの持つ暗部を序盤(3曲目)で見て、肌で感じた。なんというか、息苦しそうなんだ。歌うのが。
2000年のツアーで観た(見せた)「この曲を伝えなくちゃ!あなたに伝えなくちゃ!(じゃないと俺ら、歌で生き残れないよ!)」なる必死さ・懸命さは2001年を挟んで見事に変容してしまっている。嗚呼「永遠に」は彼らの足枷になるのかな…、そう思うと悲しくなった。で、鬱と。

アルバムに話を戻す。
序盤3曲までがアップテンポ、で攻める攻める攻める。そこから「残照」「誓い」という畳み掛けに「5曲目までは飛ばせない状態を作ったのは彼らの選曲勝利だなぁ」と素直に思う。それは一通りアルバムを通して聴いた2002年2月から現在に至るまで変わらない点だ。
自身のラジオ番組のテーマ曲をシッカと形にしてお披露目した「真夜中のコーラス」なんていう心憎いプレゼントもあって、当該ラジオのリスナーになる程のファンに対するサービスも抜かりない。
そして、これほど序盤のアゲ曲3連続に目がいく(だから、私もここまで書き連ねている)アルバムなのにもかかわらず、K-MIX(FM静岡)のメルマガで、このアルバムの紹介文に「バラード中心の充実した内容」とあった(本当)。
吃驚したわ。
てーーー、か、さあ、レコード会社がプロモ資料出してんなら、どういう文章こさえてラジオ局含めたマス相手に渡してんだよ!どうなってんだよと問いたい。小一時間問いたい。
彼ら、アルバムのプロモーショントークで「次のアルバムはアップめ」と各所で触れ回っているんですよ。なら、それが指針となるわな普通。アルバムプロモーションを然程追わない私でさえ「今回はアップめね」と知ってただけに、その最中に、この内容が飛び出したんで驚き呆れたんだよなぁ…
ああいう曲で日の目を浴びたんだから今回着目すべき売りどころはアゲ曲だろ、そのフックになってんのがアルバム冒頭3曲だろ?そう思ったのが間違いか?

そりゃー受け止め方は人それぞれ、様々だ、とはいえ「作り手の意図が伝わってないんじゃないか?」と不安がるには十二分の、随分的外れな、ツッコミどころ満載な大ネタが投下されたと言えよう(爆)けど、ねえ…
「永遠に」「ひとり」のゴスペラーズしか知らないとしても、アルバムの冒頭がああだと自然と「「永遠に」と対称的なモノを前に出してアピールしてるんですね」って思うじゃないか。それが。
まー、過去にSkoop On Somebodyのライブのネタバレ(曲目バラシ)を当該ツアーファイナル前に堂々やってのける放送局がK-MIXだったわけで足元どの程度か見当ついてんですが、それでも敢えて言いたい。あー、言いたいともさ。

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Dressed up to the Nines(2004)

以前こういったエントリーを書いているわけですが、前の文章がSide-Aなら今回upする文章はSide-Bというべきかな。書き始めながら、そう思っている。
というわけでアルバムに関して"もっともらしい"文章を書いてみよう其の一。は、2009年から"5年前"という、やや微妙なlooking_backから。


2004年3月リリース、オリジナルアルバム通算9枚目。
どうもアーチストが継続的に活動していって「通算8枚目」「通算9枚目」といった辺りは他を見ても、そして彼らを見ても思うのだ。

「これが最新作リリース当時なら好きなアルバム1位になる可能性も高いけど、この後何枚もリリースされて"じゃ一番好きなアルバムは?"と訊かれたら、9枚目のアルバムの名前ってそうそう出そうにないな…」(苦笑)

『Dressed up to the Nines』をパッと聴いて私が思ったのが「このアルバム、槇原敬之の『Such a Lovely Place』に似ている」である、此れが槇原敬之の8枚目のオリジナルアルバム(で、9枚目が『Cicada』かーー!)。
で、『Dressed up to the Nines』全体に流れる「作品の出来は良い、がコレ渋好みなんじゃね?」と思えるところはSing Like Talkingの『Discovery』のようだ。と思ったら、此れもまた8枚目のオリジナルアルバムだった。
…んー、と。奴ら、アカペラのアルバム入れないと仮定するなら"8枚目"になるのか。
と思うと、継続的に活動するアーチスト故、こういう傾向に陥りやすいのか…?
待て。本当にオリジナルアルバムの8枚目、9枚目あたりは冴えないのか?
この手の例外なのって、オリジナルアルバム7枚目リリース時でメンバー増えた(2人→5人になった)オフコースくらいか?(※)
※:オフコースのオリジナルアルバム8枚目は『We are』で「時に愛は」「Yes-No」収録。9枚目が『over』で「言葉にできない」収録、と代表曲が続々リリースされていた。

ソロアーチストだったり、3人組ユニットであったり、5人組であったり。その形態はそれぞれだが、表向き、表看板に大幅な変更が無い。まー、多少例外ありは槇原の場合。彼の場合、レコード会社移籍後の最初の作品なので、ての、くらいで。
もっとも肝心のゴスペラーズに関して、この点を言及してしまうと、プロデューサーからレコード会社から、メジャーデビューして以降、変わっていない(所属事務所に関しては彼らがデビューしたのが1994年の年末で翌年1995年入って数ヶ月経て、レコード会社預かりから小林さん預かりに変更だからな!確か、ということで、ね、と、お茶を濁す)。
メジャーレーベルでオリジナルアルバムが8枚9枚出るということはイコール、アルバムを出すと一定の売上は出る(出せる)、其の音楽の支持者も居ることの裏付けがとれている、ということ。
そして、アーチスト側はアルバムを作るスキルを相当ストックしている。ということを意味する。既にデビュー時にあった「何がなんだか無我夢中」というのは無い(だろう)。或る程度、アルバム収録曲のバリエーションも、「こういうの」というアルバム全体の形なり流れなりも出来てくる。それだけの、裏打ちされた経験がある。

だから、1アーチストのアルバムで通算8枚目、9枚目となると、どの人も作品はどこかしら"落ち着いちゃっている"といえる。
どーりでゴスペラーズのこのアルバムを聴いて、他の"落ち着いちゃっている"だろうアーチストのアルバムを想起して「あー、アレに似てるわコレにも似てるわ」と思ったわけですよ。でも、そりゃー、過去の経緯をザッと洗えば、そう、皆、同じような道のりなのだ、当然ながら似るよな(苦笑)
なんちゅーか、自作自演の人が得てして入る小路は皆同じドツボ、という感じ。で、ソロなら兎も角、此れ、ゴスペラーズ5人もとろも嵌まったのかもしれんのう……(遠い目)

さて。自作自演の人が己の新鮮味を損なわず(細く)長くやって行きたいのなら、時に自分を俯瞰して自分を客観視できて、自分に良さを出すために手数を切るのが大事。なんだけど案外、自作自演なほど此れが出来ない傾向もあったりなんかするんでゲフンゲフンゲフン…である。で、結果が「作品の水準は高いがどうも一様に落ち着いちゃって」と。
自作自演も織り込みつつ他者の力も借りて楽曲製作を続け、1990年代は小西康陽と組んで『至上の愛』(1992)を出したかと思えば秋元康と組んで『Re-born』(1994)を出す、までの手札ザクザク切りまくった池田聡の領域まで行くと立派の一語なもんだけど、ゴスペラーズにゃとてもとても…だわ(起爆)
要するに。8枚目のオリジナルアルバムに「Yes-No」収録だーー、9枚目で「言葉にできない」収録だーー、のオフコース、ってのは実際のところ、落ち着くどころか"落ち着けなかった"のだ。例外。なわけ。
掲げた表看板は同じでも中身----、その内実は異なる。新たな血(増員された3人)が入ったが、日がそれほど経ていない。これが個々の才能の再スパーク状態を生み出し、バンドとして躍動して行く要因となった。

プロの音楽として一定水準はキチンと保たれている。曲のバリエーションも富んでいる。「この曲は!」というものだって、ある(「Refrections」なんて非常に大好きだ!)。彼らの音楽家としての力量は存分に出せているのだが、同時にデビュー時にあっただろう気負いだの稚拙さだの、は過去の経験と現在の余裕により消え去っている。-----、これが落ち着きの原因なのかもしれない。
そして後発のアルバムが出るのを見るにつけ、このアルバムに対して思うのは
「このアルバムはゴスペラーズ、この一枚!にはなりづらいよなぁ…」
である。彼らの良さはキレイに表現されてパッケージングされているのにもかかわらず、だ。何だろうね、この口惜しさは。


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Hurray!(2009)

アルバム評用に"review"のカテゴリーでも作ろうかと(かなり本気で)思ったんだが、此のまま"monologue"で推し進めることにする。
こういうのは「あー、あの人、なんか一人で言っているよな」という感じでええんとちゃう?と思えたから。時間をかけてアルバムを聴き込み、しっかり作り込んで練り込まれた文章をあげる"review"ではない気がするのでね。
そう、長い"独り言"程度に。

2009年リリースのアルバム。タイトルの"hurray"は「フレーフレー」のフレイ、だそう。「頑張れ」のかけ声からアルバムタイトルへ、だが、アルバム全体に誰かにエールを送るという感じは正直無い。
こちとらすっかり音楽雑誌から縁遠く、ラジオ番組の類も聴かなくなり、テレビはもっと観なくなり(爆)情報収集してアルバムを心待ちに待つこともなくなって(記憶が確かなら2000年『Soul Serenade』からか)数年以上になりつつある中で、このアルバムを探るにあたり唯一の情報源が一つだけ、私の手元にある。
過日、地元FM局(K-MIX)が放送したアルバムの1時間特番。
静岡県でライブをするのはこの後、そうねえ、半年先くらいじゃね?というのにアルバムプロモーション+ライブのプロモーションをかます姿勢に「費用対効果がちっともねええーッ」と(以下発言自粛)
まあいい。
ともあれ、RadioSHARK使ってPC(Mac/iBook G4)で録音し、MPEG4のファイルにしてiPod nano(2nd generation)に移して…なんて聴き方は以前なら、そうねえ、10年前。それこそ『FIVE KEYS』の頃は考えられないことだ…
なる技術革新のことは横におく、本題。
その地元FM局の番組で、アルバム制作に関して、こういった趣旨の発言があった。

ゴスペラーズに様々な方面から、こういう風な楽曲作ってくださいってオファーがあって。こういうの、やってみませんか?って。それに応えて行ったら曲が出来てった。
このアルバムの功罪は此処にある。
映画で使われる曲。
番組のスポットで推され、テーマとして流される曲。
(深夜)アニメの主題歌。
それらのオファーはそれぞれバラバラの時期にやってきて、その時々其れに応じて彼らは適時見合う--------それこそ文字通りオーダーメードに楽曲作っていった。当然ながら其れら楽曲はシングルとしても切っていく。
で、アルバムにするにあたり「アルバムとして」一枚、一括りにした。
そしたら、シングルになった曲はアルバム中6曲(※アルバム収録楽曲の半数に相当)もある状態になる。東○EMIアーチスト真っ青なシングル詰め込みの幕の内状態だ。ハーフベスト、というべきか。
それでも「彼らが歌った」という縛り・括りはあるが、外からのオーダーに応じたものなので、アルバムにおけるコンセプトに根ざすという考えは挟み込まれない。
『Hurray!』の前、彼らは「このアーチスト、カバーしてみません?」「この曲に参加しませんか?」というオファーに応じて歌った作品群を一つにまとめた『The Gospellers Works』をリリースしている。
此れは「ゴスペラーズ、外仕事のまとめ」だ。
彼らがリリースしたアルバムの流れからすれば今回新たに出た流れであり、アルバムの立ち位置としては、尾崎亜美のアルバムなら『POINT』シリーズ(提供した楽曲をセルフカバー)、中島みゆきの提供曲セルフカバーしたアルバム(ex.『おかえりなさい』『御色直し』)の類に当たる、と思う。だから別の面が出て当然。
な、わけ。だ。けど。前回〜今回のサウンド志向は、この話には関係ないので横に置いて。「ゴスペラーズ、ご要望にお応えします」で自分たちのオリジナルアルバム------自分達の本域の新作アルバムを一枚、そのうち半分を作るもん(爆)となるのだ。それぞれ適時応えたら、一枚にしたってコンセプトなんて無くてバラバラだろうに。
だから、"あなたを想う"というコンセプトを元にガチガチに練り上げられた『Soul Serenade』(2000)と、このアルバムは真逆だ。

私には、オーダーメードに応える楽曲(=シングル)を一枚のCDにまとめて、他に新曲入れて「アルバム」という形にしてみたら「実のところ、コンセプトは他人の曲を歌うという縛り」な『The Gospellers Works』な雰囲気に、オリジナルアルバムがなってしまったように見えるのだ。
『The Gospellers Works』前、『Be As One』まで脈々と流れていたオリジナルアルバムにおけるゴスペラーズの濃さがなく、このアルバムではえらく薄味に感じられる。『The Gospellers Works』の外仕事な流れをひきずっているのではないか?こうも薄い理由、其れは前述した「様々なオファーに応じた」云々に根があるのではないのだろうか?
それは悪いことばかりではない。功罪と私が書くのは、だからである。
"功"があるとしたら、シングルになった曲には新しい側面を打ち出せた曲もあること。これを機に新しい人と組めたこと(常田くんとかね)。新しい発想、ヒントで曲が作れたこと(クラッシックから引っ張られて、とか)。
"罪"はオリジナルアルバムとしてのコンセプトの希薄なアルバムになってしまったこと。一定時期に書いてリリースした、オーダーメードな曲を並べた、という時系列的なアルバムになったことか。

前エントリーで呟いた「「Real tight」の濃さが懐かしい」というのは、これまでのオリジナルアルバムにおけるゴスペラーズに過分に漂う濃さなのだと『Hurray!』を通じて、改めて気付く。
得てして、こういう濃さは世間様が描く"「永遠に」「ひとり」を歌うゴスペラーズ"には求めない像でオファーの対象じゃない(爆笑)それを彼らもわかってライブの中でバカスカ出してたりするコアどころだ。
で、彼らは此れまでオリジナルアルバムで1曲、2曲と忍ばせていた。が、今回其れが落ちたアルバムと言える。

あとひとつボヤくと…
ゴスペラーズって大御所との相性、悪くない?(起爆)
「BOO」の筒美先生といい「ローレライ」の松本先生といい、ゴスペラーズが大御所と呼ばれる方と組んでイメージあがった!とか新境地だ!とか、良くなった印象がないんだよねえ…
そういった音楽の化学反応があるとしたら、むしろ、掛け合わせの良さは今回なら常田くん@スキマスイッチなんだもの。一度ならず二度もか、ゴスペラーズ(と、スタッフチームよ)。
彼らと年齢の近しいor同世代か、世間じゃ無名の人を拾い上げて--------、のほうが彼らに合う気がするのよ。どうなんでしょ、この見解。

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遠い約束:黒沢薫(2005)

あぁた遅い!と思った方、御免なさい。
本日手に入れ(以下発言自粛)
しかも中古で<待て。
流石に値段を公表するには憚りますが、正規価格から7割引の価格で購入し(以下発言再自粛)


さて本題。
CDを手に入れる前、ソロライブの折に「遠い約束」を耳にした時に思ったのが
「薫ちゃんが自分で「永遠に」をリライトしたら、こーぉんな感じになるのかも」
という(苦笑)実に「ゴスペラーズに関しては点の辛い」件のコメントなんだけど、「シングル=名刺」だと思えば、この曲が「彼の最初の名刺」である。
そう思えば、ゴスペラーズの出世作であり彼のリードボーカルが光る「永遠に」の線上にある曲(「遠い約束」)で販売戦略上は正解なんだよなぁ…

バラード系。Aメロの低音域スタートといい(爆)サビでは薫ちゃんの武器というべき中音域の攻めといい、なんというか、「永遠に」を思い出させるには十二分だよなぁ…、である。
そう思ったら「薫ちゃん自身が書き直した「永遠に」」という言葉が自分の口から出てもうたんだよ!(自爆)それほど悪くない出来の曲なのに。
そうぼやきながらクレジットを見たところ妹尾さんと薫ちゃんの作曲なのね。今頃気づいたよ。そりゃアタシ「永遠に」を思い出すわ(苦笑)

つくづく思うのは、薫ちゃん、いや黒沢さんというボーカリストは中音域の声の伸び具合、及び安定感が抜群だということ。ゴスペラーズ創世から続く、彼の、最大にして最高の武器じゃないだろうか。ホント、これに尽きる。
だからか低音域の微妙な音の取れてなさ加減が目立つ、というのはあるのだけど(苦笑)


遠い約束
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