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[2000/01/22]ゴスペラーズ坂ツアー -アカペラ門-@新宿シアターアプル

※この文章は過去、web上にあげられていたものを再録したものです。
なお、ライブレポート集のインデックスページは、此方になります。

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実のところ、今回期待してなかったんです。ゴメンナサイ>皆様
例年に比べて楽しみにしていなかったんです、まあ前年のlive reportで解るかと思います(苦笑)ゴスに対しては何処か不信感が芽生えていたから、どうも穿つ観方にしかならなくて。
なにせ
「去年の(公演内容)そのまま使いまわすでしょ」
と不安と期待の初日参加1列目という知人に言い放ったのは何を隠そう、私。

逆に。それが良かったのかな、と思います。私は彼らの行動の裏を読みすぎていたのかもしれないです。それに疲れているんじゃないか?って。
そう、観る前に考え過ぎて疲れ切っていた(本格的苦笑)
頭を空っぽにして、ただ単純に舞台に集中できたから泣けるほど感動したのだと思います。けれど、言いたいことは後から山の様に溢れた。当然、主題にも曲にも内容にまで。

先ず、あのthema設定。
themaじゃない、主題?ですか。つまりは「ここで描きたいもの」。
それってかなりの割合で口をついた提言のひとつ「アカ門は、アカ人と表裏一体である」。
だからかもしれない、悪くも良くも突っかかりそうになったのは、前回鑑賞者の言い分なのだろうか…
前回は「未来の考古学者」が「アカペラ人の化石」と語る物語で、その中で「A cappellaがどのように生まれたか」という時代考証、harbershop harmonyの話。
今回はstoryは前回に比べてsimpleだと思う、私は最初「自閉症の少年が心を開くまでの過程」だと思った。
彼が見ているもの、見えているものは心の闇。
小さな世界。
場所の限定性がまず一緒だったので「ああ」と思ったから。

どちらも「自分の中の小さな世界」から想像し(それは夢想ともいえるのだけれど)そこを通過点にして外へと向かいかける、そういう方向性の話。2回とも役者を中心に据え、彼らを「storyteller」にすることで、ゴスペラーズ自身は絶対的「影」<脇役ではないにしろ重要な役柄、を担う形。
だからこその「アカペラ人の化石」、今回の「出来そこないの五人の天使」という非人間の存在に至るのだろう。とまで思う(始末)。
そう考えてから物語の底辺に流れているもの(これが一番言葉にしづらいものだからreportにならない)を考え出すと、両方の舞台経験者から言わせれば「ああ、人と門はlinkする(この文句某mystery小説のようだ)」とsimpleに思えてしまう。

事実、やっていることを観ていると「去年の焼き直し」の箇所(STOMP状態の踏み鳴らし・細かい芝居の箇所)は否めない。backgroundに楽器を用いる事が出来ない、声だけで魅了する主眼のstageだけに自然と、その表現用途も限られてくる。
だからこそ「去年のものの習作」ということを此方は(悪くも)考えてしまったに過ぎないですが…。
彼らの立ち方、見せ方はだいぶ自然になったと思う。前回をしっかり消化して、出す方法を実戦で覚えたからかもしれない。

だからか。
逆に「アカ人(前回)の前のA cappella Liveの形態を見たい」と思えてしまったのは何故だろう。逆に、そっちにすることで此方を良い意味、裏切らなかったな…、と思う節も。
極simpleに歌う姿勢に惚れ抜いたliveだったけれど、あれをどこか「観たい」と思えてしまう…。

ただ余計なことだけれど。writerの平山さんが『What's IN!?』誌live report pageでも書かれていて、最初私も思った「ナオトが自閉症の少年」だと、あの話に若干の無理が伴うことにも、live tour終了後になってから気付いた。
中盤にナオトが「愛だとか夢だとか」というところがある。
本当に自閉症で閉じこもってしまって、もしも心までも開けなくなって、ただ自分の中で苦しむ人からは他者との介在の必要な「愛」とか「夢」よりも、もしかしたら「自分っていう存在」にvectorが向きがちではないのか?と思えたのだ。
愛も夢も解らない。だから「雪が解らない…」。
目が見えないから判らない。というのもあるだろう。と同時に三重苦のHelenの話を思い出す。
「water」という認識から始まった世界への扉。
それまでの暗黒の世界。
それはナオトのいる場所と一緒なのではないのか?
認識できない、だから愛も夢も出ない。出るその前に、多分もっと混沌とした頭の中になると思えてならなかった。
もしかしたら、より向かう場所は「自分って何?」。
そして「"解らない"が"解らない"」という先へ。そこへに陥るのではないのだろうか、と後から思えて…。

そう言えるのは自分が一時期、対人恐怖症に近い形で人との会話さえままならない(話をしようにも言葉が出て来づらい)状態になって、仮性ノイローゼみたいになって人との会話も困難になって、それこそ周囲の反応に過敏になって事ある毎に泣き叫んでいた20歳の頃を回想すると、正に「混沌」としてしまっていて、普段は出来るだろう正確なjudgementが出来なかったからだ。
嘘のような話だが披露しとこう、自動車学校の最初の測定。あの心理検査で「運転不可」と「再検査」が出るくらいのものが、実はそこには潜んでいるからだ。
うん(苦笑)自分の身を切らせてもらいましたが。全て先立つものが「対する恐怖」なんですよ、怖いから自分が知っている世界の中に閉じこもってしまい、決して外に出ようとしない。
それくらい知ることが怖い筈。
そこで「君は君だから」「大丈夫だよ」という言葉が必要になるんじゃないのか。そんなことを思った。
もしも、「I LOVE YOU,BABY」を中断する形までしてナオトに「愛」とか「夢」を語る必要性があるなら、兄という同性より異性の役者を据えるなら、もう少し話が成り立つ様な気が…。
とも思えたんですわ。即物的ですが(自爆)

そう、選曲。
曲が…。
申し訳ないけど、曲に対して「前回の」という注釈が多過ぎるのでは?しかも本当に、その通りに「前」の「アカ人」からの使い回しが多かった!!!(起爆)
あんまり「前回の(後略)」のcommentが並んだので、思わず突っ込みかけるのですが。
手抜きとまで言い切らないけれど、もし前回の曲を使うのならば、どうしてもっと前の曲を使わないのだろう?
率直な疑問。
A cappellaでcoverするのも珍しくなってきた彼らだから「それだけでもうれしい」という声もあるんだろうけれど、果たしてそうなのだろうか?欲を張ってもっと「A cappellaだからこそ違うものを見せてくれる」と思うのが、それが良くないのだろうか?

彼らが五鍵からずっと(正確には昨年7月以降からずっとtour状態では)時間が無い、準備の時間が極端に少ないのは解っているところだ。それでもどうなのだろう。解っていながら、より作品性、完成度を求めると、そういう言葉を口に出してしまう。
彼らのA cappellaで「SMILE」という曲がある。今回の主題からすると「逆に「SMILE」出せたんじゃない?」と思えたりしたからか。
「SMILE」とか、他にもA cappellaのcoverの数を知っているだけに(74分MD1枚以上になるくらいのA cappellaのcoverとoriginalの曲を彼らは持っている、実際そんなMDを知人に手渡したのが、この日22日のことである。その中には「FUTARI」「Something in my soul」も収められているが…)
「その前にA cappella Liveでやった曲は使わないの?」
「このthemaなら、もっと良い曲、ゴスでもあるじゃん」
「昔のradioでA cappellaで歌っていたmy little loverの「Hello,Again」で行けない?このpart」
と。
つまり。「現在に近いところの曲の使いまわしが、僅かばかり多過ぎた」、それくらいの溯った昔の曲でもええんちゃう?と正直、思えるもの。逆にそっちを出してくれると、これはこれで新しく好きになってくれた人にも嬉しいpresentになったと思うし、昔から観て来た私のようなヤツもホッコリしただろうし(苦笑)、もしかしたらもっと内容に添えたかもしれないし、もう少しそうしても良かったんじゃないのかな…。
ここまで魅了してくれた彼らだから、逆にそれが言いたかったのは事実です。

そして、と言いたいところなのですが。閑話休題。
22 日「なりきりゴスペラーズ」report。part分けを6に施した上で最後に北山sideのpartを安岡sideのpartに移し、北山sideの part(「あたらし〜い♪」という歌詞のあるpart)を酒井sideに移す。ということまでして、失敗気味で終了。
その後の「なりきり」はあまり上手く行かなかった、というのを29日に知ることになる。わけなんですが。
それ以上に途中での一こまに撃沈。

村上「いい?大丈夫?このpart、声、出てないよ」(こんなカンジの言葉だったと思う)
黒沢「(普段の喋り口調で)昨日じゃなかった、一昨日もこのパートさ、声が出て無くって…。大変だったよなぁ、てっちゃん(と、隣で歌唱指導中の村上さんに呼び掛ける)」
村上「(思わず、というカンジで)てめぇ、喋り掛けるんじゃねえッ!!!!」(と叱りつける)

これで「飛びました」ね〜、bass[北山]もrhythm[酒井]も。かろうじて安岡さんが振りと音を残していたが、その彼も苦笑しつつpaceを取り戻す、という有様のぶち切れ方。逆に「今日は観て良かった〜」と思ったのでした<変だけど。
liveに期待するのって、その場の「ナマモノゆえの何か」でしかないんだもの。
そう。これなんだよ、生モノであるliveの醍醐味。
瞬間に起こってしまうもの。happening。
10日間公演の恐ろしさ。どの日に何があるのか解らないというナマモノならではのモノ。でも通うほど観る気、ないんですけどね(苦笑)

その後、黒沢さんのムキになった
「てめぇら、ハラから声を出せ!出そうと思えば出るだろう!!」
という切れ方だけでも22日は「黒沢さんな日」だったと言えましょう。
あ、酒井さんですか?意外と眼中無しだったなあ。何せ髪型すら判別不可能のメガネ着用時の視力の私だったゆえ知りません(苦笑)眼中になかったです(爆)

曲順は29日と同一。

辛口のコメントが並んでいますが、この日のライブ、実は泣いてます。
当時の日記にこのライブを観て泣いた事実のみを書いてあるので、サブテキストとして読んでみると面白いかもしれません。
2000年1月22日の日記です。

下の文章に注釈を入れる箇所があるので…
この日、某知人から譲り受けたチケットを、22日しか観ることが出来ない!とチケット掲示板に書き込んでいた別の知人に譲り渡すため、アプルの前に行ったのでした。
そしたら、アプル前、また別の人に声をかけられました。
「11列目の北山サイドのチケット余ってるんだけど、誰か、観る人いる?」
そういった経緯から、文中に「(特に@会場前)」が入って来ているんです。
つまり。譲って貰ったチケットを人に譲りに行ったら、別の人からチケットを譲る話を持ち込まれて応じてしまった(爆)のね。
だからセーターにチノパン、みたいなラフ極まりない恰好にメガネ(当時、ちゃんとモノを観たい時のみコンタクトを入れていた)という気合いの無さで観ていたように記憶しています。

手の届かない彼方に眠る 全ての答に向けて
(♪ゴスペラーズ「Higher」)


このところずっと溜めていたんだろう。
私は泣く事で吐き出してしまいたかったのかもしれない。
もっと泣いて良いことが多い筈なのに、素直に受け入れれば良いのに、気楽に思うだけで良いのに、それでも私は常に冷静を装う。そうすることで涙を溜めていたのかもしれない。
どうしようもなく「泣きたくなった」。
その途端、手が震えた。
震えはおさまらない。
最初のアカペラツアー、あのライブを思い出す。
パルコ劇場で観た、あのライブで号泣寸前で涙が止まった。
これはあの頃の私が、今の自分に与えたrevengeなのか。そう思ったら、それまで震えていた手の震えが止まった。
逆に止まった途端、目尻から涙が滲み出す。


泣いて、良いんだ。


正直思えた。そう思ったら最後だった。
かけていたメガネを外した、後はもう手で涙を押えるだけだった。

「アカペラ門」22日公演は私にとってそういうライブになったことだけ、ここに書かないとならない。と、思って、この事実だけを書く事にしました。
手の甲で涙を拭う、指で涙を押える、そして泣き顔を誰にも見られたくなくて思わず二度も顔を伏せてしまった。自分の中ではそんなライブになったこと。
一世一代の不覚でもいくら悔しくても、ありのままの事実だから、正直素直に負けを認めて(苦笑)
そんな、今日という日を与えてくれた全てのもの、素晴らしい偶然(特に@会場前)に感謝します。
素直に言える。
本当に、ありがとう。深く、深くお辞儀をしたいのはむしろ、私の方です。

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