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補助輪が外れる日

先日、以下のアルバム評を読んだ。読んで回顧したことがあったので書くことにした。
ゴスペラーズが貫禄ある歌とコーラスで大人のR&Bを魅せた『Soul Serenade』 | OKMUSIC
…、ナルホドネー(読後の第一声)。

20年前のアレコレ調べるとなればWikipediaから拾うでしょう。『Soul Serenade』前の時期のチャートアクションもデータとして当然拾うでしょう。

個人的に振り返って思うのは、「永遠に」以前もホールでコンサートをやっていたと記憶しているので、少なくとも鳴かず飛ばず…という状態ではなかったことは間違いない。
そう書かれているけれど、じゃ、そのホールでのコンサート事情。そのどこまで体感しているのやら(ハテ)。などと20数年前からの記憶を総動員して毒づいてしまう。その毒づきモードのまま、「永遠に」な前後、1999年2000年頃のホールコンサートな話から書き始めてみる。


続きを読む "補助輪が外れる日"

1990年代。オリコンのアルバムチャート一桁に食い込んで首都圏で2,000人前後のキャパのホールコンサート開催が需要と供給のバランスが程好く保たれるカンジになるのかネー…
と言うのが他アーチスト等の動向・動員を見ていて、基準として私が持っていた指標である。
「オリコンのアルバムチャート一桁に食い込まないで天下の中野サンプラザ複数日開催て、そこに見合うだけの"格"というものがあるでしょうよ…」
「開幕投手には格というものがあるだろう」的だが、そんなことを真面目に思って口にしていたのだ。
「坂道発進」(1998)での渋谷公会堂。メジャー3枚目のアルバムのツアー、1994年12月後半のデビューなのでほぼほぼ1995年組と仮定して3年目。そのツアーファイナルでのホールコンサートはライブハウスを回って地道にライブを重ねた上での、特上そして最高のツアー双六の"あがり"だった。まだオリコンのアルバムチャート一桁はない。それでも地道に重ねた数字(売上)と本人たちの度量、プラス、集客に無理がない。分相応に私には見えた。

が、このあとゴスペラーズ陣営は、この分相応から外れた行動を見せる。
例えば、「FIVE KEYS」(1999)での東京厚生年金会館3DAYS。
例えば、『Soul Serenade』を提げての「ゴスペラーズ坂ツアー2000」(2000)での中野サンプラザ4DAYS。
実際、中野サンプラザの名前を会報のツアー日程に見た時「オリコンのアルバムチャートで一桁のないグループが大きく出たな」が自分の第一声だった。
そして地方。
「沼津、浜松さー。先ず静岡って『GO'S MEGA STORE』(※JFN系列のゴスペラーズのレギュラー番組)やってないよ。K-MIXも大したプッシュしてなくてホールで、って無謀だよ」
首都圏、中京圏に挟まれてメディア露出に乏しい土地でホールコンサートの集客は正直どうだ。
その最初。「FIVE KEYS」(1999)での沼津、浜松。共に1階しかフロアのないホールの20列がどうにか…というところ。沼津なら首都圏からも近い。浜松なら中京圏からも日帰り出来る。とはいえ集客については「少なくとも鳴かず飛ばず」なところが残った。

音楽を売る。CDを買ってもらう。その為に名前を知って貰うためにメディアに出る。
キャリアの浅いほど、音楽雑誌のレギュラー、ラジオ番組のレギュラー、テレビ番組のレギュラー、そういった定期露出は欲しいものとなりやすい。それが音楽雑誌に出ているのに音楽の話をしていなくても。それこそ時としてKUS○みたいなバラエティーでの扱いを受けたりしても。
本業たる音楽が自転車本体だとしたら、メディアの露出は補助輪に似ている。いつかは補助輪を外して自走する必要はあるし、補助輪を外したり、あたらしい補助輪を付けたりすることもある。
そう考えた時、『Soul Serenade』の前段階でゴスペラーズの定期露出は数を減らしていて、随分すっきりしつつあったのでは?となるのだ。
のちに『ノーカット』でまとめられた雑誌連載は2001年より随分と前で終わっているし、『スコブルイー』にしても同じだ。途中までは彼らを追いかけ支えることが出来たが俗に言う「売れた」2001年まで彼らを追いかけ続けられなかった。「PATi-PATi」も、そう。
1999年2000年を境に連載モードが終わり、雑誌に出るのがCDのリリースタイミング、不定期になっていく。
ラジオも2000年3月でNACK5『THE GOSPELLERS' SHOW』が終了したことでJFN系『GO'S MEGA STORE』だけになる(で、2001年10月に「T-FMでも流すから〜」と仕切り直しがドドンと入ることとなるが、これは別の話)。


「Promise」から「永遠に」リリースまでの時間は残酷で、一介の若手だった彼らを「もう若手枠で支えるには厳しい」「かといって中堅枠で扱うにも難しい」ところに変えている。当時の状況をリーダーの村上氏はのちに「J2」「J1に行けるのか」とサッカーに喩えていたが、如何せん中途半端な状況だったんだろうと思うのだ。

新人のうちは自走できないから、そこここと補助輪をつけて車体を走らせていた。でも補助輪は補助だから外す日が来る。新人、若手な頃につけた補助輪。それを(理由は様々あれど)一度外してみた頃が1999年から2000年。折りしも『FIVE KEYS』『Soul Serenade』の2枚にまとまるのかな、と思う。


と、ここまで思い返して「ああ、そうだった」となったのだが、私は「永遠に」が出る頃まで「ゴスペラーズ、このシングルで売れたいんですか」とシングルがリリースされるたびに思っていた。それくらい「売れる」ことを意識しながら見ていて、「で、どうよ」と思っていたのだ。
1990年代。タイアップ全盛、タイアップ大正義の時代。「待ちきれない」だって(『アメジャリチハラ』知ってる人は相当だぞ…)「終わらない世界」「Vol.」だって、それこそ「BOO」から「夕焼けシャッフル」から、大なり小なり番組のエンディングテーマだCMソングだ、あれこれタイアップをつけてレコード会社(Ki/oon)はCDを売り出していたけれど、結果として、それらタイアップは売れる決め手に欠いたものになってしまった。
結局そういった翻弄の果てに、コンセプト(「あなたに歌う」→セレナーデ)をガッチリ固めて。
曲も練りに練り上げて、「永遠に」→『Soul Serenade』→「告白」→「ひとり」で勝負する形を整えて(『Soul Serenade』を作った時に、同時に「告白」と「永遠に」と「ひとり」の計15曲を録音。「その15曲でブレイクしたという気持ちがすごくあるんです。」[村上] / MOOK「JAPANESE DREAM Vol.6」[2001])。
自分たちの口から「金字塔」「もう終わりだと思って作った」と言って作り上げたアルバムが今も彼らを生かしている。

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