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小休止、的?

ちょっと箸休めな文章で切り抜けます。


過去の自分、げに恐ろしき。そう思うことがあって、それは過去に書いた自分の文章に思うことで。2003年10月〜11月の日記を読み返して驚いたのが

個人的には「G-FILE」の「ごす絵日記」の書式に則って(タイトルが青文字、フォントも同じ、フォントサイズもソース読んで「ああね」と採用)「八王子、チケ、譲って頂き感謝です」と勢いで全文を書き(申し上げるまでもないが、ライブレポートを書くのに必要なものは勢いだ)ホームページで使う際に更新しやすいようにと配慮したからこそのHTMLファイル・書式統一までして「メールに添付して、あんさんに流したるう」と思ったんですよ。
けど、あの人の「メールへの添付ファイルはウイルス対策のため、有無問わずに削除の方向で」を思い出し「まー、URLを流すか。いつか」と思って流していないまま放置プレイだった(呵呵大笑)GTツアー、八王子公演のライブレポートってのが一番に衝撃やも知れませんね。

------以上、diary[031101]より一部抜粋
あーー、チケット譲ってもらったからライブレポート書いたのね。というのが今になってわかった。本人、チケットを譲ってもらったのはキッチリ覚えていたが、だから「これは意地でもレポ書かねば!」となっていた、で、書いていたのはド忘れしていた。と。
で、同じファイルにあった2003年11月2日の日記の文章に妙に惹かれたので、これも一部抜粋することにする。
このアルバム(SALT&SUGAR『CONCERTS』)が出た時に「このアルバムは10年聴ける」と即座に思った(笑)わけですけど、これは1996年12月リリースなんですね。これと前年10月にリリースされていて、実際のところ私は1996年6月頃に手に入れることとなるゴスペラーズの1st『The Gospellers』と坂本龍一教授のアルバム『1996』が「この年聴いて降参したアルバム」の三傑状態になっちゃったんですよ。当時の私だから、20歳から21歳。すっげえ地味な20代の入り口だなあ(自爆)
この三点に共通することがあるとするなら、サウンドを作る際の隙間に鍵があると思います。

教授とS&Sというのは楽器数が少なく、必然的に演奏者、歌唱者の力量が問われやすい作りになっています。アコースティック過ぎるほどに生音なのですね、コンピュータが一切ない。ピアノと歌、だとか或いはピアノ、チェロ、バイオリン…といった具合でして。必然的に隙間が多い。
1996年という時代背景を考えてくださいましね、小室先生produceモノが全盛を迎えてました。隙間がないんです。コンピュータなものは世間に溢れ過ぎて興味がなくなりつつあるわけですね。当時の私はかなり音楽的嗜好、思考、志向共に左右されていた存在がSLTでしたから。で、当時のSLTというのは完全に生楽器、生演奏志向へ向かって邁進している最中です。実際問題、その2年前、1994年[ゴスペラーズがデビューする年]に SLTは生音志向への所信表明のような7枚目のアルバム『togetherness』を切り出してオリコンチャートで1位を奪取していたわけです。
かなり「時代の神様」を味方につけつつあった当時のSLTなんですが、その、その後は今、皆さんがご存知のように。ということでして(微笑)考えてみるにセルフカバー、カバー曲、ライブレコーディング。オリジナル全盛の当時に、先んじて出されたアルバムに私は飛びついていたんですね。

じゃあ。類似点のあったふたつと違いのある、ように思えてしょうがないゴスペラーズは?言われるとねー。
バッキングは正直、良いとは言い切れません。非常にチープです。スカスカです。が、むしろチープでスカスカで、正直良くはない打ち込みの上にダーーーーッと武器である各自、色が違う特徴も違う質感も違う全員が全員混ざりづらい(大苦笑)声を5本、置いて。トラックの上に重ねてしまったんですね、彼ら曰く「ハモリ風呂」の如く。
この手法が「ゴスペラーズ特有」という味となり、後に「全員が声をブツける」というゴスペラーズのスタイルとなっていき、彼ら自体の武器となっていくのがこれはまた凄いところなんですけれど(爆)
「祈りの街」という楽曲が典型例かもしれないんですが、間奏だろうと何だろうと声で押し切り倒した、っていうカンジがあって。それにビビったんですね。向こう(海外)のグループがやる手法じゃないか、それを聴き手の耳が育ってないこの日本でやっちゃっていいのか?そんなことまで素人の私が思うほどだったので。

バッキングの持つ無機質な薄さ、平均年齢20代前半(!!)の荒削りで硬く未完成な声。結構、対比としては鮮やかなんですよね。
加えてバッキングや後ろを流れるトラックの持つ機械感、人間味のない様が、より、声の持つ生々しさを生んだ。恋だけではない、迷いや苦味を帯びた歌詞を曲に乗せて歌うことで、それはより加速した。「Higher」が「永遠に」以前から彼らを知る、特に初期ファンの人ほど「U'll Be Mine」と共にコアな支持を集めやすい理由は、この生々しさを嗅ぎ取ったからでしょう。
都会の持つ構図と、それはそっくり同じだったんです。ビル群、高速道路、地下鉄、路上、そういった都会の無機質でしたたかに生きる人間の鼓動、叫び、祈り、孤独、呟き。そして歌。
そういう時代をリアルタイムに経たから、だけじゃないと思う。正直、彼らの恋愛モノの歌は…(苦笑)昔は好きだったんだけどね、今は。この人を共感させよう思うなら「永遠に」を例に引いてもわかるだろうけど、非常に手厳しいよ(自爆)とだけ言いましょう。

後に隙間を生む編曲をすることで楽曲構築に成功したのが、ゴスペラーズの数あるアカペラ楽曲の中でも「カーテンコール」にあると私は分析するんですが、この時は、こういった空間構築はしていない。というよりも彼らには出来るほどレコーディング作業に長けてもいなかったでしょう。
この時は歌+バッキングトラックで、どこまでやれるのか?その手探りの第一歩だと思うから隙間を考えてはないでしょうね。で、肝心の1996年リリースのアルバム『二枚目』からわかりやすく楽しい広く音楽を取り扱うバラエティー路線に行ってしまって(と書くか、アタシも)最後は「声のバラエティー・ショップ」が如くポップス大全開で、それはそれで個人的に出来が良いと思っていて好きなアルバムのひとつ『Vol.4』まで行き着くわけですね。

------以上、diary[031102]より後半部分抜粋
アルバム一枚の持つ流れと、アルバムが続くことで産まれる流れ。このあたりに引用の終盤になってワワ−−−ッと触れてますが、これがあったから『FIVE KEYS』にオトせたのだ。と思っちょるのですよ今も。

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