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さよならの物語(1)

※この文章は「GO UP HILL」に2001年4月にweb上にあげられていたものを再録したものです。
「さよならの物語」は「極私的アカペラ街論」と「極私的村上てつや論」のふたつから成り立っております。これはその「極私的アカペラ街」の再録です。
カテゴリーを「live」に分類したのは「アカペラライブに関して」で綴られた文章による、この一点です。

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これは「ゴスペラーズ坂ツアー2001・アカペラ街」を観て、芝居の主題に関して"私が"考察したことです。本編の動きだったりアンコールの「なりきり」だったり、メンバー各自のソロパートのレポートだったりというライブレポートとして欲しいと思われる箇所の記述はどちらかといわなくとも「ない」です。
本編は論を展開する都合上ピックアップしつつ書き出すものの、その流れは分断されているものが多く、実にライブの描写としては実に少ないと思います。
1999年「アカペラ人」、2000年「アカペラ門」そして2001年「アカペラ街」と続いた「アカペラ三部作」を奇特にも観ることの出来た"ひとり"が考えたものの、ひとつがこれだと思ってくださると幸いです。

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2001年公演「アカペラ街」の中で終盤、印象的なシーンがある。ここに深い意味を求める人はいるかどうかに疑問があるのだが、ひとまず話を続けていこう。
ヤスオカの部屋に招かれた、50年先の未来から来たヤスオカの息子・マコト。ふたりはひとしきり話をした後に「じゃあ、寝るか」と眠ることにする。この時の台詞のやり取りだ。

※ヤ=ヤスオカ[安岡優]、マ=マコト[中村まこと(劇団・猫のホテル)]

(ヤスオカ、ひとたび寝転ぶと枕に頭を乗せていたが、起き上がり、ベットに腰掛けると)
ヤ「あのさあ。(数秒置いて)明日、俺が目ェ覚ました時、お前もういなくなっているなんてこと。ないよな?」
マ「………、(寝たままの姿勢、目は閉じているのか?わずかにおかしそうに)わかりませんよう。一晩寝た後なんて、そんな先のこと」
ヤ「(納得して)そうだな。じゃあ。さよなら。言っておかないとな」
そして、ふたりは一度は告げた「おやすみ」ではなく、永遠の別れを告げるように「さよなら」と告げ合って眠りにつくのである。


アカペラ三部作。そして、芝居三部作。
いつしかそう銘打たれていた「アカペラ○」のシアターアプル連続公演。3本目となった公演が、今回の「アカペラ街」公演だった。
今回の筋立てとしては、1994年。ゴスペラーズがメジャー・デビュー前という時代設定である。
メジャーデビューを前に、最後の路上を歌う(実際に歌い終わる)までの「ゴスペラーズ」の3日間。ただある程度、彼らの「現実にあっただろう」事実に近いものの、それはあくまでも架空の3日間である。となると、かなり近い位置でのゴスペラーズ・青春群像劇という触れ込みになるのだろうか。そこに「ひとりの異邦人の乱入」を絡んで話は展開する。
50年後の未来から来たマコトというヤスオカの息子だ。まだ1994年頃は20歳そこそこ、付属高(※早大本庄、某編集者の方が未だに間違ったままだったので訂正)あがりの大学2年生だっただろうヤスオカより、軽く10は年齢を上回っている彼はヤスオカよりも幼いところが多いし、また同様に危なっかしいところも多い。
…事実、ゴスペラーズの練習のシーンに一緒に歌い出して、ムラカミに怒鳴られただけで失禁してしまう一幕も持っている[中盤、練習中に歌われる「靴を磨く」のくだり]。


去年[筆者注釈:2000年]まで。昨年の公演が終わった時点で、三部作のうち二作品を観たところで、私は今までの二つの芝居を結ぶキーワードを「さよなら」という一言、それに結びつかなくもない言葉で「会う」の不可能と否定意志とで述べようとしていた。簡略的にまとめると、こうなるのかと思う。

・アカペラ人(1999)
序盤での床屋のシーン。
黒沢・安岡によるダブルモノローグ下りでの台詞「今日は、会えない」[安岡]
そこから「未来」へと入る筋立て。

・アカペラ門(2000)
序盤に切り出される「君が言った『さよなら』って…、『さよなら』、のさよなら?」[北山]
終盤に歌われる「未来」を断ち切る形で、ナオトが「出来損ないの天使たち」から告げられる「さよなら」[村上]
そこに重ねられた「もう会わない、っていうこと」[安岡]


「アカペラ人」の時、「さよなら」という言葉での明示はない。テーマも「さよなら」と明快に出せるものでもない。
ただ。「会えない」というのは不可能であって、会う意志があっても行動が伴わないものである。「会わない」のならば会うという意志の拒絶であり、会うからこそ、人は別れ際に「じゃ、さよなら」と言うことが出来るのだ。会うこととの対称に、訣別の存在があるならば。

「未来」で始まっていったのが「アカペラ人」。
未来の考古学者と、アカペラ人の化石が「アカペラ」の起源を織り成していく舞台。しかし、それは前半のみといった印象が強いもので、後半は「いつものゴスペラーズ」のライブ、アカペラバージョンといった趣だった。
それを裏返して、再構築した上でトレースするかの如く演じられたのが翌年「アカペラ門」公演だと思う。だからこそ前作の隠れたテーマに「さよなら」がキーワードになるのでは?と睨むのだが…(いささか強引ではありますね)。
終盤、前作序盤に歌われた「未来」を最後にぶつけて、曲を中断する形で出された「さよなら」。
さよなら、は訣別だ。会うことへの拒絶。

ただ、このふたつの芝居を、ひとつの言葉でシンクロさせようとしたならば、「会う」という単語に集約されるのではないか?と思うと、その「会う」ことと反対に存在する言葉「さよなら」「訣別」というものに目が行くようになっていたのは確かなところだろう。
実際、当時、この2作を観た人間から出たのが「人と門はリンクする」という一言だった。この当時、私は、ある掲示板にこんな一行を残していて、今となると驚く。私は「アカペラ門」を、こう捉えていたんだ…
>あれは「さよなら」という訣別の物語でもあるんですね。

そして、今回[筆者注釈:アカペラ街]だ。
…、また、ここでも新しい、もうひとつの「さよなら」の物語が展開されている。ゴスペラーズを知るほど面白いと言われた今回の舞台だが、芝居の根にある「言いたいこと」「見せたいこと」「伝えたいこと」というテーマ、観点では、実は何ら前作と変わりがない。むしろ観終えてから「だから三部作なんだ」、そう自然に思ったくらいである。

ところで。今回は二段階で「さよなら」が配置されていることに何人が気づくだろう。
ひとつは前述の、ヤスオカの言う「さよなら」の下り。もうひとつが中盤、サカイがムラカミを自室に呼んで告げた「戻れない橋を渡る」の下りだ。
中盤。ムラカミを前に、自分がプロとしてやっていけるかという胸の不安を吐露する場面でサカイは言う。

※サ=サカイ[酒井雄二]

サ「でも。…ある意味、戻れない橋を渡るって事じゃないですか。 俺はまだ卒業もしていないし。今だったら。今なら…、やり直せるかもしれない」
そうムラカミに告げて「ちょっと出かけてきます」と言って自室を飛び出し、一度は雨の中に消えたサカイは、雨をよけるように階段に座り込んでいるマコトに声をかけられて、初めてふたりは言葉を交わす。
「愛してる」の歌を歌いながら鉄橋を走り切れずに意識を失って、50年前に飛ばされたマコト。
プロという世界に向かうことを「戻れない橋を渡る」事だと思って躊躇する、1994年のサカイ。
ふたつの「橋を渡る」エピソードがクロスした時に、初めて重ならない筈のふたりの前に「橋を渡り切る」=「橋の向こう側にさよならを言う」、「橋の向こう側に行く」ことで「次の場所へ向かう」という命題が突きつけられる。


プロになるということで、アマチュアで歌を歌うサカイでも今まで持っていただろう何かを多少なりと失わなければならない、と思うのは容易に想像できる。
それがある程度に保障された己の将来だったり収入であったり、自分自身がマスメディアに惑わされない安定した生活であったり、或いは音楽という表現自体を仕事にすることであったり、そういう不確かな未来しか見えない生活に自分が飛び込むことの精神的な曖昧さであったり、もするのだろう。
そういう肝心要の時に、必死に前を向きつつも不安定さを見せる気持ち。その具現をサカイの役に負わせたのは確かだろう。
そのへんの機微がどこか、かいまみえる文章があるので参考までに紹介しておこうかと思う。10年以上も活動を続けて現役を続けるベテラン、スターダスト★レビュー。デビュー15周年の折に、メンバーの林紀勝さんがこんな言葉で、ミュージシャンになった時のことを振り返っている。
僕は大学4年生になったとき、大学を中退してこの業界に入ったんです。
だから、僕にとってスターダスト★レビューでデビューしたことは、初任給や有休休暇や定年や退職金とかが関係ない会社に就職した感覚でした。

-----スターダスト★レビュー『STARTIC '96』パンフレットより林紀勝氏のコメント一部抜粋、冒頭部分より
それが対岸への「さよなら」を意味するのだとしたなら、橋を渡って対岸に戻ることを望まない選択を今なら出来る。今なら戻れる。そう思ってもおかしくはない。プロになる決断がサカイにとっての「橋」になり、同時に「対岸に対してのさよなら」になっている。
歌を歌う父とは違う道を歩いて、更に一方的に愛した人を失って、何故か50年前にいて50年後の自分の生きるべき時と場所へと戻れないマコト。父の歌う姿に会ったことで、50年前に「何しに来たんでしょう?」と一度はヤスオカに答える自分も、もう一度、頑張ろうと思う。未来に戻る決断をすることで、彼もまた「橋を渡る」決断を自らに課している。
※サ=サカイ[酒井雄二]

サ「橋を。渡りましょうか、ね…」
サカイは、マコトと話をすることで橋を渡る決断をする。したからこそ、そこでそう呟くのだと思う。プロになる。この橋を渡る。戻らない。
戻らない事で手に入れたもの、と、同時にサカイは何かを失っている。

じゃあ、そんなサカイに苛立ったムラカミは、どうなのだろう。ゴスペラーズを率いるムラカミが、サカイやヤスオカ、そしてマコトのように橋を渡って「さよなら」するものはあったんだろうか?
その前に、ムラカミの立場を考察してみたい。

あの話の中で、ムラカミはとうにプロに進むことを決めている。
だからリーダーとして、遅刻の多いメンバーを叱り飛ばして、練習の中心となり、時には気合の足らないメンバーに檄を入れることもないわけじゃない。今はただ、目の前にある、明後日の路上ライブを成功させようとしている。
雨の降る夕方、サカイの部屋で言う「一人でも見に来てくれる人がいたらやるよ」という一言に集約される。あの言葉に意味を見る人もいないとは思うものの。
客がいる、だから歌う。
それはシンプルなまでに歌い手としての、プロの姿。たたずまい、そのものでもある。

あの時、サカイが躊躇した「プロになること」という「戻れない橋を渡る」こと。
あの話の中で、むしろムラカミは、とうに戻れない橋を渡っている人間だと思っておかしくない。それよりも、サカイが渡れずにいる橋の反対側で、サカイを見ているムラカミという構図も想像出来なくはない。
だからムラカミは、一度でも戻れない橋を渡っていると思う。
ただ、ここでサカイとも違うのは、戻れない橋を渡り切った時に対岸と「さよなら」となって、そこで手に入れたものと同時に、失ったものを切り捨てずに、切り捨てるどころか「失ったもの」という名目で得てしまうところがあるように思う。捨てないのは、自身が「何もない」という自覚があるから手に入れているんだろう。
って…。ここまでくると「私的・村上てつや論」になりかねないし(自爆)この話が本当に纏まらなくなるので、ここで話は終わらせることにするけれど(自爆)ってマジ悪い、申し訳ない>皆様

戻れない橋を渡る。それはさよならになって、そこで何かを失って、それを切り捨てることなのだろうか?
ここまで書いてみて、判るのは、そうすることで手に入れるものと失うものが確かに存在することだろう。…、まぁ。きっと「さよなら」ということは、恐らくそういうことだろうな(苦笑)何から「さよなら」したいのか、それは判らないものの、それでも痛みだけはちゃんと残していくものだから。

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