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さよならの物語(2)

※この文章は「GO UP HILL」に2001年4月にweb上にあげられていたものを再録したものです。
「さよならの物語」は「極私的アカペラ街論」と「極私的村上てつや論」のふたつから成り立っております。これはその「極私的村上てつや論」の再録です。
カテゴリーを「monologue」に分類したのは「アカペラライブに関して」ではなく「私が思うに」で綴られた文章による、この一点です。
事前に「さよならの物語(1)」を読了後、お読みください。これを一読しないと、論の序盤の展開がわかりづらくなっております。何卒ご了承ください。

続きを読む "さよならの物語(2)"

先ほどムラカミは橋を渡り終えて対岸に立っている。と書いた。
サカイが躊躇する「プロになる」という橋を渡り終えて、ひとつ何かを失った中で、彼は向こう岸にあの性格そのままに(爆)悠然と立っている。
ところで、何がムラカミに橋を渡らせる原動力になったのだろう?
これを解き明かすとなると、芝居の論から外れて「村上てつや論」になってしまう。だから言葉を濁して一旦、チープなトリックをひとつ設けてみたのだけれど(苦笑)[筆者注釈:当時はlinkを入れて、このページを別ページにしていた。]実は、これを書くためのヒントや考えがまとまらなくてどうしようもなかったのよう(苦笑)何をどう言葉にしたら伝わり切るのかを考える前に、先ほどの雑な概論を出していたのです。ということで勘弁してくだはい(自爆)

踏み締めながら流されながら 駆け抜ける日々の中で
手の届かない彼方に眠る全ての答に向けて
-----ゴスペラーズ:「Higher」

「Higher」という作品が酒井が元になる曲を書いて、それを村上と酒井の曲のキャッチボールをしながら練り直しを重ねて誕生した、という話は昨年[筆者注釈:2000年。執筆が2001年なので「去年」]12月に終了した「ゴスペラーズ坂ツアー2000」でも出た話なので、まだ知っている人も多いかもしれない(知らない方、本当に御免なさい。去年のツアーの中盤に日替わり duet cornerがあって4回中1回は「Higher」をやっていたんです。その運良くやった会場でしか話しとして出なかったのよ。筆者は個人的初日となった浜松公演で目撃済み)。
ところで、上記の言葉にリードを取る黒沢よりも、村上を感じたのは筆者だけのことだろうか。


「MO' BEAT」「Two-way Street」などで見せるゴスペラーズ・青春群像ものと呼ぶべき?楽曲の中で、村上は常に何かに苛立ちながらも別の場所へ、次の場所へ、そしてより高い場所へ駆け出そうとしていくのが見え隠れする。坂を昇って、階段を駆け上がって、その目の先が追う。それが、鍵になるだろう…、な(微苦笑)と思うのだ。
それを少し解き明かせるといいのだけれど、と思いつつ。

中学・高校時代、サッカーをやっていたという村上てつや。この話は流石に知る人も多いことだろう。
ボールの先を追い、ゴールを狙い、その先の勝利を追う競技がサッカーだ。チャンスを作り、チャンスを狙わない限り、彼はボールに触れることが出来ないし、そして勝利を掴むこともままならない。シュートチャンスに躊躇は必要か、ゲームメイクに躊躇がいるのか?というと、そうではないように思う。
となるとサッカーという球技は物凄く、物体に対しての動体視力や瞬速の判断決定などが長けていないとやっていけないのである。
ところでサッカーボールだけではないが、ボールは転がる。宙を飛ぶし地面に落ちる、掴めるものの時にすり抜ける、目で追いかけても見落とすこともあるだろう。胸で両手で抱かない限り、その手から零れ落ちる危険性を孕んでいる。実際のところ、手のひらだけでは払いのけるので精一杯だし、キャッチングもミスすれば終わりである(と、ここまで言及出来るのは。球技は違うものの、私はハンドボールのゴールキーパー経験者なので実体験として存在するからである。はじいただけではゴールされる危険性を回避できない、こぼれ球がゴールしてしまうケースはないわけではないのだ)。

劇中[筆者注釈:アカ街]、キタヤマが「この現実は誰かの夢だと考えたことはない?」というような切り出し方をするくだり、ムラカミは自分のことを「シュールリアリズムに傾倒していた」と言う。「夢だとか現実だとか分けることがナンセンス」だと笑い飛ばすようにも言う。
だとすると。村上がそういう人物ならば、そこから派生しただろうムラカミは、目の前の矛盾もチャンスもただひたすらに掴み取ろうとするキャラクターだといえよう。その判断は厳しく、丸は丸であって、ボールはボールだと思っている。だからチャンスはそのまま、チャンスとなる。

ムラカミはサカイの躊躇した橋を渡っても、失うことで何かが終わると思っていない。
それはひとつのゲームが、そのまま後のゲームに影響するかの如く、すべてが記憶の中で続いてしまうからだと思う。
勝利を失っても、それを糧にしないとならないからだ。だから「何かなくした」と強く思わないようになっていく。それ故に「失った」という感覚に非常に疎い。それゆえに本当に喪失感を得た時の精神の消耗も激しいと思うのだが(苦笑)
「チャンスの神様の後頭部が禿げている」という話ではないが、ムラカミは、その掴めないものへ追いつこうと追いかける。
何故なら、その掴めないものがグラウンドを転がるボールと同じだからだ。転がるボールの先が常に輝いているように、デビューするということ、そして客の前で歌を歌うことが輝いて見えたからだろう。
それはきっと、その時は何も持ち合わせていないだろう、けれど追いかけることは何も無くても出来るからだ。だから必死で追いかけて、手に入れようと手を伸ばすとすり抜ける。そして、何も掴めなかった手のひらを見て何もないことを知る。何もないから執着して、更に追いかける。それは手に入らなかった勝利であり、決められなかったシュートチャンスであったり、デビューのチャンスだったりするのだろう。

この手に、答となる何かを入れようとして。

それはサッカーボールを追いかけて走る頃と、プロを目指して走ることと、実は何ら変わらない。その匂いを「Higher」の歌詞の、取り上げたフレーズの中に見たのは何故だろう?


私には、その「手に入らなかった」という喪失する感覚より、その「なかった」という手のひらを一瞥して、ムラカミは手に入れるものに目を奪われいるのだと思う。それが大きく輝いている限り、追いかける。グラウンドを走ってボールを追うのと同じように。
だから「なかった」ものが「失った、あるもの」に変容する。追いかけるものは中学・高校生の頃とは違う。今はプロのシンガーという立場であり、グループでのデビューであって、それから先に広がる未来だったのだと思う。それが大きいからこそサカイが戸惑う先の不安を打ち消すことが出来ている。

だから、彼は橋を渡ることを躊躇しなかった。そして渡ってしまった。
プロになることの方が、プロになって失うものより白く輝いて見えたからだと思う。あの日のサッカーボールのように青々とした芝生の上を転がる白い点を、彼は橋の向こうに見たのかもしれない。だから、橋を渡る。駆け出して対岸に向かうことが出来た。

だから逆に言えば、手に入れたものは離さないし、それを切り捨てることが出来ないでいる。それを失うことを強烈に怖がるからだ。手のひらを見て「何もない」「なくなってしまった」と思うことを、自分が否定されたかのように彼は思うのかもしれない。
だから、彼は今も切り捨てることが出来ない。結果的に切り捨てているものは多いものの、それを本当に切り捨てているか?というと、前述の通りで失ったものを得てしまうし、実際にそうして自分の中に残しているものが多いところがあるように私には見える。だからだと思う。
だからこそ無理に嫌いきれないわ、目を奪われてしまうわ(笑)母性本能をくすぐられるわー、だのファンの女性諸君が陥りやすい症状が出てくるんだろうとは思うけどねー(ふふん♪とハナで笑うの図)

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