終了番組評価 評価詳細(コメント有りor評価公開可のもののみ)
No. | 作品名 | 評価 | コメント | 転載許可/評価公開可 |
1 | ゾイドジェネシス | 名作 | 一年間を通じ、少年の成長を丁寧に描き切ることのできた作品だと思う。最後まで一本芯の入ったシリーズ構成により、張り巡らされた伏線も見事に回収され、ライバル・ザイリンと協力して巨悪を倒すラストの展開にも大変燃えた。正統派ロボットアニメとしても良質だったと思う。主人公・ルージを取り巻くレギュラー陣は皆どこかしら抜けていたが、そういった穴も決して物語を損なうことなく、むしろシビアすぎる物語を緩和する役割を果たしていたので、これはある程度計算した上でのものだったのだろう。最終決戦の後、キャラクターたちのその後は一切描かれないが、こういった想像の余地を残す最終回というのも、この作品らしくて良い。作画に関しては・・・個人的にはあの低レベルさが大好きなのだが、ちょっと波がありすぎたとは思う。 ただ一つ残念なのは、後半エイベックスの横やりかあからさまに萌えを狙ったEDが投入され、『ゾイドジェネシスとはそういう作品だ』という印象が広まってしまったことだ。この路線はED以外には波及せず本編は最後までマイペースを貫いたのだが、EDのせいで誤解されてしまったのは大変勿体なかったと思う。 | 転載可
|
2 | おねがいマイメロディ | 名作 | 新番組コメントの時点で予言したとおり実際女児に受けたそうで、サンリオがアニメから立ち上げた『クロミ』ブランドは黒というメインカラーの物珍しさも手伝い、かなりのヒットを記録している。この作品が決してヲタ受けだけでない、普遍的な面白さを持っていたことの現れだと思う。 色物的、ネタ的要素ばかりが取り沙汰されるこの作品だが、根底に流れるストーリーの組み立てやキャラ立ては大変しっかりしており、最後まで揺るぐことがなかった。特に悪役である柊先輩が最後の最後まで自分自身を貫き続けたのは大きい。すべてにおいて恵まれすぎてしまった為に夢を失い、ただ『面白いこと』だけを追求し続けた柊先輩が、歌に興味を持ったのも『他と違って面白そうだから』であったし、ダーちゃんに乗っ取られた身体を取り戻したのも『ダークパワーの曲よりはドリームパワーの曲の方がまだマシ』と判断したからだった。それでいて他者に対する関心を完全に失っていた訳でもなく、むしろ『ナンバーワンになれたらイイナ!』で幼い頃の柿崎の行動を逐一覚えていたことなど他者に関わりたくて仕方なかった節もある。善悪を超越し自分の行動にいまだ何の後悔も持っていない、そんな柊先輩の独特すぎるキャラクターは今後長く語り継がれることだろうし、柊先輩の存在があったからこそこの物語が成立したとも断言できる。また、クロミノートに記されたクロミの過去の数々は、視聴者をクロミに同情的にさせると同時にマイメロのキャラをもしっかり立てていた。マイメロはマイメロ自身の行動を追うだけでは透明なままのキャラなので、クロミノートが与えた影響は果てしなく大きい。こういった各キャラに対する色づけが一つ一つのエピソードで丁寧に積み上げられ、夢が暴走する『タクトがふれたらイイナ!』で最終的に結実する。実によく練られたシリーズ構成だったと思う。 物語中で偽EDを流してみたり最終話に至っては気象速報を流してみたり、とにかく何でもいいから視聴者を面白がらせようという工夫があらゆる所に見られ、まったく飽きることがなかった。子供に受けたというのも、その純粋なエンターテインメント性が評価された為であろう。『くるくるシャッフル』でも2年目のジンクスに負けずエンターテインメントを追求する作品であってほしいと思う。 | 転載可
|
3 | デュエル・マスターズ チャージ | 殿堂入り | まず始めに断っておくが、当作品に対する今回の評価は決して客観的なものでないのみならず、普段の自分の評価基準からいささか外れている部分があるのも、残念ながら事実である。だがしかし、この作品をつつがなく視聴する、ただその為だけにHDDレコーダーまで購入した自分にとって、この作品を『殿堂入り』にせずして、一体何にその称号を与えよと言うのか。それ程までに、この作品が自分の人生に与えた影響は大きい。 この作品は放送形態において、あまりにも大きなハンデを背負っている。『おはスタ』内における1コーナーという扱いで、20分強の本編を5分単位に分断しての隔週放送。隔週というのすら建前で、一ヶ月放送が無い時もあれば、一ヶ月連続で毎週放送される時もある。始まる時間も特定されておらず、数分のずれが生じるのは当たり前。完全に『おはスタ』視聴者を対象に特化された作りであり、この作品『だけ』を見る視聴者のことはまったく想定されていない。その為に発生する制約は数知れず、しばらく放送されなくとも忘れないよう単純なストーリー構成が求められ、なおかつ5分前後の短い内容の中に『おはスタ』全体を流し見している子供の気を惹く為のフックも設けなくてはならない。あまり説明に時間のかかるような複雑なコンボや、『遊戯王』のような長尺の台詞回しによる演出も封じられている。この枠でドラマ性の高い連続したストーリーを描くのは無謀な試みとも言える。だがこの作品は、それらのハンデを見事に撥ね除け、『遊戯王』とともにTCGアニメの双璧として並び称せられる程のものに成長したと思う。また、『おはスタ』内でストーリーアニメを作る際の手本となるべき規範を示した作品でもある。 この作品は『遊戯王』とはまったく異なるアプローチで作られている。『遊戯王』がアニメとしての見た目を重視して、現実には存在しないカードや実際に存在するものとは効果の異なるカードを多数登場させているのに対し、この作品では全てのデッキが発売済もしくは発売直前のカードによって構成されている。この新カード登場のタイミングが実に絶妙で、1〜2週間後に発売予定のまだ雑誌媒体にも載っていないカードが要所要所で効果的に用いられており、自分のまわりでも度々話題となった。大きなデュエリストですらこうなのだから、登校前にアニメを見た子供たちが学校で新カードの強さを口々に語り、期待に胸を膨らませたことは想像に難くない。『遊戯王』がデュエルの雰囲気を伝え『自分も遊戯や海馬になりたい』と思わせることに重きを置いたのに対し、『デュエル・マスターズ』はより実践的な方向に踏み込み、『こんな絶望的な状況も打破できる』『こんな爽快な勝ち方もある』とデュエルの可能性を示し、『君も勝舞と同じように強くなれる』と焚き付ける。どちらのアプローチも一長一短あるが、どちらも正解であると自分は思う。そして世にあからさまな販促作品は数あれど、これ程ストーリーと販促とが上手く噛み合い機能している作品は、この両者以外近年見ない。 物語に目を移してみる。この作品の基本ストーリーは実に単純明快である。大会への参加、大会の影で暗躍する悪の組織、そして悪の組織との対決。親友・白凰の奪われた記憶を取り戻す為に旅に出た勝舞は、果たして宿敵・不亞家を倒すことができるのか? コロコロホビーアニメの基本フォーマットから一歩も外れぬ作りは、前述の通り『おはスタ』内の不定期放送においても子供がストーリーを忘れぬ為の配慮でもあろう。だが、その裏で展開されるドラマはこの上なく暗く、重い。カードゲームで本当に人が死ぬ世界。この物語の三人の主人公、勝舞・白凰・黒城はそれぞれ肉親を『デュエル・マスターズ』により失っている。白凰は母親を目の前で殺され、黒城は絶望的な裏切りの果てに信じていたもの全てを失い、復讐を誓う。勝舞もまた、戦いの中で宿敵ザキラに父を殺されていたことを告げられ、心を折られそうになる。それでも尚、彼等は戦い続けねばならない。かつて真のデュエリストの大半が虐殺されたこの世界には戦う力を持ち世界を救える者は彼等しか残されていないのだから。 これ程までに陰鬱な物語を内包するにも関わらず、この作品が子供たちの絶大な支持を得ているのは何故か? 一つには明快なストーリー構成とギャグを交えたテンポの良さ、コミカルなキャラの外見等で、その陰鬱さが巧妙に覆い隠されているというのもあろう。5分にストーリーが分断されていることで逆に表層のストーリーやデュエルシーン以外は伝わりづらいというのもあろう。だが、それ以上に大きいのは勝舞の前向きで情に厚いキャラクターの魅力だ。どんな絶望的な状況に陥っても決して挫けず希望を信じ、友の為に前に向かって走り続ける勝舞だからこそ、見ていて『頑張れ』と素直に応援したくなる。過酷な不亞家との戦いにおいては、勝舞の笑顔に救われた部分も大きい。『主人公は作品の北極星』という言葉が、勝舞には実に相応しい。 さて、恐らく非難囂々と思われる最終回だが、原作既読者からしてみれば原作どおりの展開であり、逆にザキラに勝利するオリジナル展開にしなかったことで続編の開始という『たった一つの希望』に繋げることができたとの見方もできる。しかし、原作にはラストページに『次号新展開』とアオリがあり勝舞の再起に期待をかけられたのに対し、アニメ版は少なくとも一年間はお預けを喰らう訳で、それどころか本当に続編が作られるという保証も無い。どういった事情で『勝舞完全敗北、白凰洗脳完了、不亞家完全復活』という視聴者を再起不能にまで叩きのめすような最終回になったのかは知るべくも無いが、やはり擁護しかねる内容であったのは確かである。『DM無印』での『度重なる放送休止により最後の2話が無かったことにされ、DVDにすら収録されない』という仕打ちを考えれば、これでもまだマシなのだろうが・・・呪われてでもいるのだろうか、この作品。 | 転載可
|
4 | うえきの法則 | おもろ | 原作は希代の後化け作品で、その面白さが開花していく様をリアルタイムで見ていた自分にとっては特に思い入れの深い作品でもある。そんなこの作品がアニメ化されると聞いた時は、原作が既に終わっていたこともあり、信じ難い気持ちや不安の方が先に立った。終盤の神懸かり的な面白さは本物だ。だが、序盤のどうしようもないつまらなさもまた、本物だ。このような作品をアニメ化して本当に成功するのだろうか? と。だが、アニメ版のスタッフは原作の特性をよく把握し、最大限の仕事をしてくれたと思う。特に序盤は作者が物語に必要な情報の取捨選択を誤っており、『黒猫』同様描かれなければならない部分の欠如や逆にどうでも良い冗長な部分が多々あったのだが、そのあたりはやはり『黒猫』同様大鉈が振るわれている。それでもフォローしきれずに序盤で多くの脱落者を出してしまったようだが、これはアニメスタッフを責めるべきではないだろう。豪華なキャスト、美麗にリファインされたキャラデザインと安定した作画だけでも、原作ファンとしては十分満足できた。 ただし、不満に感じる点もある。例えばネタバレに対するガードの極端な甘さ。予告やサブタイトルで次回の展開がどんどんバラされてしまうのは、頭脳バトル中心のこの作品においてはダメージが大きい。森の能力の内容がヒントのメモに『うっかり』書いてあった(伏線にするつもりかと思ったのだが、結局何のフォローもなかった)など、致命的なミスもあった。このあたりはもう少し気を遣って欲しかったと思う。また、冗長な部分をカットするのは良いのだが、後半では必要な伏線、必要な場面すらカットしてしまっていたのもマイナスポイントである。マリリン戦後に見せたマリリンの笑顔などは、絶対に省くべきではなかったシーンだと思うのだが。全体的に1話ごとの詰め込み量が多く、『ここはもっと尺を取ってやってほしい』と願っていたシーンがさらりと流されてしまうことも多かった。それだけ情報量の多い作品だったとも言えるが、シリーズ構成には多少の疑問を感じた。 これらのマイナスポイント故に評価は『おもろ』にとどめておくが、あの終盤の展開を良質なアニメで再び追うことができたのは、原作ファンとして幸福だった。スタッフには植木のこの言葉を借りて謝辞としたい。『ありがとう。このアニメと会えて良かった』。 | 転載可
|
5 | おろしたてミュージカル 練馬大根ブラザーズ | ふつう | 『ミュージカルとアニメの融合』はこれまで多くのチャレンジャーが挑んでは敗れてきた試みだが、さてこの作品はと言うと、半ば成功、半ば失敗というところだろうか。物語中に歌を混ぜ込むことによる違和感は、これまでのどの作品よりも少なく感じた。テンポも良く、ダンス等演出の面白さも存分に味わうことができた。如何にスムーズに台詞から歌に繋ぐか、配慮を重ねて作られた成果であろう。しかし、やはりというか限られた予算の中では使える曲数には制限があり、同じ曲が歌詞を変えて使いまわされたことや、社会風刺というテーマ故にネタも似通ったものに終始してしまった為、1クールという短い放送期間ですら中盤からはマンネリ感が強くあった。物語もギャグも定型化されており、ワタナベ監督&浦沢シリーズ構成のコンビということでギャグが滑るのは織り込み済みだった筈の自分でも、後半は見続けるのが辛かった。 アニメの演出手法にミュージカルはアリという成果は高く評価したいが、いかんせん内容が戴けない。ただし、内容がこうなってしまったのはミュージカルという手法にも一因があり、まだまだ研究の余地があると感じた。今後も似たような手法のアニメを見てみたいと思う。 | 転載可
|
6 | 闘牌伝説アカギ―闇に舞い降りた天才― | 名作 | 最後の最後まで福本漫画の雰囲気をまったく損なうことなく完走したアニメ版に感謝を、そして拍手を。後半はさすがに麻雀を知らぬ人間には辛い描写も多々あったが、それ以上にリアクション芸人・鷲巣様の数々の名リアクション演出が面白く、最後までぐいぐいと引っ張っていってくれたのは見事。原作で8年打ってもまだ終わりの見えぬ鷲巣麻雀を、アニメで無理にまとめるのではなく敢えて中途で終わらせた英断にも高い評価を与えたい。その高度な心理戦、奇想天外な戦略を特徴とする福本漫画に決着をつけることができるのは他ならぬ福本伸行以外には存在せず、オリジナルではどんな決着であろうとも納得いくものにはならぬのが目に見えているからだ。今回の判断は実に正しい。 芸能人を多用したキャスティングはアニメ界では非難を浴びがちだが、この作品においてはどのキャラも実にしっくりとハマっていた。特に主人公アカギの魔性は萩原聖人以外には再現できぬ。アニメは女性にも人気だったと聞くが、その多くは萩原聖人の声に魅了されていたのであろう。『声の力』を改めて強く感じた作品でもあった。 | 転載可
|
7 | CLUSTER EDGE | 駄作 | 『監督の降板は作品の死』という言葉がある。思えばこの言葉自体『ガンダムW』の時に池田監督に与えられたものであったが、その言葉に照らし合わせるならば、我々の愛した蔵星は第14話の時点で既に死んでいたのだ。 第15話以降のこの作品は、脳死状態の患者に必死に延命措置を施していたようなものだ。物語的には以前よりも纏まったのかもしれないが、常人にはその御心を計り知ることのできぬ『神様』アゲートを後任スタッフは扱いきることができず、主人公である筈のアゲートは持て余された末に背景の片隅へと追いやられ、より分かりやすいキャラであるクロムやクロム団のメンバーへと視点は強制的に移される。『聖人の心を持った神』がこの作品のテーマであると、池田監督は語っていた筈だが。『全員すぐに学園を飛び出しちゃうんですけどね』とも。やはりこの作品は第15話以降では別物なのだ。 1クールの間に総集編3回、総集編でなくとも回想だらけという体たらくの責任は、やはり負わねばならぬと思う。降ろされるのは当然だし、ストーリーが本来考えられていたものとは違ってしまうのも仕方ないことだろう。本来のストーリーは池田監督の頭の中にしか存在しなかったのだから。しかしそれでも尚、天真爛漫な神様に魅せられ、その奇蹟を毎週毎週心待ちにしていた信者としては、死んだ子の年を数えるように『真実の蔵星』を願ってやまぬ。それがどんなに叶わぬ夢とわかっていようとも。つくづく、池田監督の罪は深い。 | 転載可
|
8 | ガラスの仮面 | おもろ | 序盤は原作の良さをまったく再現できておらず失望して落ちたのだが、中盤から持ち直したとのことで視聴を再開した。確かに見違えるように良くなっており驚かされた。時代背景を現在にずらしたのも、開始当初には意図が掴めなかったが原作ファン以外の新たな視聴者に抵抗無く受け入れられるようにとのものと理解できるようになった。亜弓や麗のデザイン変更は原作既読者的に結局最後まで受け入れられなかったが、逆にあの極端な縦ロールは未読者には奇異に見えるというのも頷けるは頷ける。少女漫画界に金字塔を打ち立てた作品とは言え、原作は連載中断して相当の年月が経つ。名前は知っていても内容までは知らない人間も多かろう。そういった視聴者を相手に『ガラスの仮面』の魅力を伝えるダイジェスト的アニメとして、この作品は十分にその役割を全うしたと言える。壮大な原作を1年に上手く纏め、物語の要点を最後まで伝え切れたと思う。 最終目的である『紅天女』の決着寸前でアニメが終了してしまったのは歯がゆいが、『アカギ』同様原作で描かれていないものは描きようがない。恐らく一生描かれないだろうと諦めてすらいるので、アニメ版はこれはこれで良いと思う。下手にアニメオリジナルで決着をつけるとロクなことにならないのだし。 | 転載可
|
9 | 甲虫王者ムシキング〜森の民の伝説〜 | 駄作 | すっかり往時の勢いを失った筐体版『ムシキング』だが、ゲームファンの間ではその原因として競合機種の台頭以上に『アニメの内容』が挙げられていることをご存知だろうか。アニメ開始当初、『良質な子供番組』だの『わからないなりに子供の心にも何かを残す』だのといった擁護意見を多く聞いたが、実際に子供向けイベントで筐体版『ムシキング』に群がる子供達がアニメのデモには目もくれない様を見てきた自分にとっては、そんな詭弁も虚しく響くばかりだ。最終決戦でムシキングが大活躍しない『ムシキング』のどこにワクワクすればいい? ポポよりも大人達が戦う姿ばかりが目立つ『ムシキング』のどこに思いを重ねればいい? このアニメは『ムシキング』が大好きな子供達の心を最後まで考えてはくれなかった。子供が見てくれない作品は子供の心に何かを残すこともできないことを、スタッフには肝に銘じて欲しい。 扱っていたテーマは親子の絆や生死観等重いものには見えたが、それらのテーマをきちんと消化して物語に組み込むことができたのかは、極めて疑わしい。とりあえずテーマは投げかけてみたものの、スタッフ自身それをどう処理すれば良いか困っていたのではないか。ソーマがポポへの妬みから敵に回るエピソードがあるが、それ以降ソーマが迷走し続けた挙げ句『なんとなく』元の鞘に戻ってしまった例などを考えると、重く見えるテーマは単なるフェイクだったのではないかとすら思う。少なくとも自分には、ソーマが裏切るまでの経緯や心情は納得できていたつもりだったのだが、実際に裏切った後のエピソードを見たら、ソーマを通してスタッフが何を描きたかったのか、逆に見えなくなってしまった。これは一つの例にすぎず、最終回で美味しい所を全部持って行ってしまったセランの扱いなど、疑問に感じる点は多い。自分にはこのスタッフが『ムシキング』という看板を使って何がやりたかったのか、最後まで見ても結局理解不能だった。こんな小難しい理屈をこねくり回さずとも、筐体版の『外来種を率いて平和な森を侵略しに来たアダーと、旧来の穏やかな森を守ろうとするポポの戦い』というストーリーにも考えさせるテーマはいくらでも含まれていたのにと思う。 『ブラック博士とネプ博士のムシキング講座』だけは、徹頭徹尾楽しんで見ることができた。制作者自らがこういった姿に扮して『ムシキング』の魅力を伝えようとする、そんな熱意とサービス精神が少しでもアニメ版スタッフにあれば、もう少し結果も違ったのだろうかと、寂しく思う。 | 転載可
|
10 | BLACK CAT | おもろ | 原作はジャンプ至上有数の駄作と名高い作品で、それをわざわざ連載終了後一年も経ってアニメ化しようとは一体どんな乱心かと怖いもの見たさで見始めたのだが、そんな自分の目の前で展開された映像は、まさに『奇蹟』と呼ぶに相応しいクオリティだった。 『黒猫』という漫画は何故つまらなかったのか? 表層のパクリや設定のいい加減さは実は些細な問題でしかない。描きたい『場面』だけを優先し、その場面に至るまでに積み上げられるべきドラマはことごとく省略、何故このキャラがこの行動に至ったのか、そもそもこのキャラはどういった人格の持ち主なのかといった最も重要な要素が不明瞭なまま、読者が物語から完全に置いてきぼりを喰らい続けていたことこそが、問題の本質だったのだ。今回のアニメでは原作を大胆に再構成し、描かれるべきだったのに描かれなかった場面を大幅に補完、逆に読者からしてみればどうでも良かった冗長な場面はばっさりカットされ、トレインが何故スヴェン達に惹かれたか、スヴェンが何故トレインを守ろうとしたかといった最重要な動機(そう、これらもまた原作では描かれていなかったのだ)を付加した上で、『黒猫』が本来なり得る筈だった純粋なエンターテインメント作品に仕上げてみせた。また、三木眞一郎演じるクリードの狂気は大変素晴らしく増幅されており、これを拝めただけでも今回のアニメ化の価値はあったと思う。クリードとの決着後のオリジナル展開は全キャラクターを活躍させようと欲張りすぎたきらいがあり性急な感が否めないが、エクストラトラックと割り切って楽しませて頂いた。何より、この作品でまさか『伏線』などというものがマトモに処理されるとは思ってもみなかったので、伏線がきちんと消化されまくるこのエクストラトラックは嬉しい誤算だった。 世の原作つきアニメのスタッフは、すべからく『原作ファンも矢吹先生も喜ぶ変え方にしよう、原作をいい方向に壊してファンにも喜んでもらおうと思いました』という板垣監督のコメントを百遍書写して臨んでほしいと思う。それ程までにこのアニメは原作への愛に溢れていたし、『あの』原作に愛を持って接することができたというだけでも、スタッフには惜しみない賞賛を与えたい。 | 転載可
|
11 | とっとこハム太郎 はむはむぱらだいちゅ! | ふつう | 『ハム太郎』は自分の中ではシームレスな作品なので、総括参照。 | 転載可
|
12 | とっとこハム太郎(ここまで総括) | ふつう | 小学館コンテンツビジネスの象徴であったこの作品が遂に一つの区切りを迎えてしまったことに、強い感慨を覚える。記号キャラの代名詞として燦然と輝いた木村くん、そんな木村くんと『どう見てもこっちが本命』キャラ・ロベルトくんとの間で(視聴者の脳内だけで)揺れ動くロコちゃんの仮想三角関係、事態が面白く転がることだけを至上の命題とする黒い眼鏡っ娘・カナちゃんと、カナちゃんすら太刀打ちできぬ天然黒キャラのヒカルちゃん(仮名)。何もかもが皆思い出深く、大切な作品だった。 放映開始当初、ハムスターと飼い主のエピソードとがそれぞれ独立しているようで実は微妙にリンクしている物語構成は、飼い主側を主体に見る大きなお友達とハムスター側を主体に見る女児層の両方を共に満足させる斬新な手法だった。一時期やや人間側の強烈なキャラクターを前面に押し出す傾向はあったものの、中盤までは人間側とハムスター側の物語比率はほぼ同等だったと記憶している。それが狂ってしまったのは、関係者の予想を遥かに超えて『ハム太郎』の人気が高くなりすぎてしまったからだろう。より低年齢層に受けるよう人間パートの比重はどんどん軽くなり、新たなキャラクター商品を作れるよう次々とゲストハムスターが投入され始めた。それでも最初の頃はまだハムスターらしいデザインとエピソードが保たれてはいたものの、後半になるとネタの枯渇により『ハムスターに似たいびつな新種の生き物』が多数登場し、遂には『すいーちゅぱらだいす』というハムスターだけの世界に、ハム太郎達は閉じ込められてしまう。上層部としては新たな活躍の舞台を用意することによって、より『ハム太郎』の人気を広げようという狙いだったのだろうが、これは大きな誤りだった。上述したように『ハム太郎』は人間パートとハムスターパートとがリンクしていたことでハム太郎達がより身近な存在に感じられた部分もあり、下手に分離してしまうのはハム太郎達の魅力を伝えるのに逆効果なのだ。また、『すいーちゅぱらだいす』があまりにも現実とかけ離れた魔法の世界だったこともハム太郎達を遠い存在に感じさせ、人気の低下に拍車をかけた。この種の勘違いによる路線変更→人気低下は、小プロ作品に数多く見られる自滅のパターンである。『ポケモン』しかり『ミルモ』しかり、そしてこの『ハム太郎』しかり。いい加減学習することを覚えては如何か。 さすがに『すいーちゅぱらだいす』編の誤ちには制作サイドも早々に気付いたのか、ハム太郎達は約一年で元の地下ハウスに戻ってくることになり、新レギュラー『そらハムくん』『オーキニーちゃん』もハムスターらしいデザインを取り戻した。しかし一度落ちた人気の回復はならず、『ハム太郎』はひっそりと表舞台から姿を消すこととなる。『のりスタ』枠内での『ハム太郎はーい!』は5分枠、しかもポリゴンキャラということで人間パートの復活は絶望的だろう。そうなっては最早自分にとっては『ハム太郎』とは呼べぬ。 さて、大切な作品かつ呼吸をするかのように感想が書ける作品でもあった『ハム太郎』だが、評価としてはやはり『普通』にならざるを得ない。『ハム太郎』は『ドラえもん』と同様、振り向けば自分のすぐ側にいた作品なのだ。そういう意味で、自分にとってこの作品は『普通』なのだと思う。 | 転載可
|
13 | ロックマンエグゼBEAST | ふつう | OPの内容や1クール目の冗長極まりない展開から考えて4クール構成で物語が組み立てられていたのは間違いないと思うが、今時珍しい4クールから2クールへの放映期間短縮の為に典型的な打ち切り展開となってしまったのは残念だ。しかし、広げきった風呂敷を1ヶ月で無理矢理畳み、一応の決着をつけてしまったばかりか、次シリーズに繋がる伏線まで張ってのけたのには、逆に驚いた。『これを1ヶ月で纏めるのは到底無理だから、15分枠に移動してもこのままストーリーを継続するのだろう』とばかり信じ切っていたのだが。やはりこのスタッフの力量は決して低いものではないと、改めて見直した。 ただし、やはり打ち切りだけあって、本来もっとエピソードがあっただろう新キャラ達の扱いなど不満点も数多く残った。ビヨンダードに熱斗たちが飛ばされてからの展開は俄然面白くなっていただけに、こんなことなら退屈な1クール目にもっと巻きを入れてほしかったとも思う。仕方のないこととは言え、大変勿体ないシリーズだった。小プロの横暴は一体いつまで続くのだろうか。 | 転載可
|
14 | ふしぎ星の☆ふたご姫 | ふつう | 『ゆるゆる〜っと見て見て〜』というのがこの作品の当初のコンセプトであった筈なのだが、中盤以降、コンセプトから外れた方向へと物語がどんどん進んでいってしまった。ふたご姫が最終進化形であるエターナルソーラープリンセスへと早々に達してしまった為、謎掛けのような面白さのあった『どう使うのかわからない』魔法が、事件を直接的に解決できる魔法へと変化してしまい、ふたご姫ならではの魅力を削いでしまったように感じる。また、後半の物語の中核となったアイテム集めだが、闇に堕ちたブライトよりも各国王家の方が主な敵のように見えてしまう展開ばかりで、あまり『ゆるゆる〜っと』グレイス・ストーンの行方を追うことができなかった。せめて『各王家の仲が悪いのは闇の力が強まったせい』などといった物語との関連付けがあれば、もう少しすっきり見られたのだが。更に最終話、そんな現王家に対するアンチテーゼ的に王子王女の友情の絆で最後のグレイス・ストーンが見つかるといった展開になれば大層美しかっただろうに、現実にはそれ以前の問題で、あれだけ大勢いる王子王女が、ただふたご姫の活躍を祈るだけのその他大勢として扱われてしまったのも腑に落ちない。あれではまるで、ふたご姫とグレイス・ストーンの力だけで闇に打ち勝ったかのようだ。 見たところ2年目の決定に合わせてストーリー展開を変更したようにも思えないのだが、中盤以降、全体的に練り込みの甘さが目立った。キャラや世界観は魅力的だっただけに、ここをああすれば良かったのにと物足りなさばかりが記憶に残る。『ゆるゆる〜っと』なら『ゆるゆる〜っと』なりに作り込む必要があるのは佐藤順一監督なら当然承知しているだろうしシリアス展開にシフトするにしても特に悪役のブライトなどはきちんとキャラ立てしていかなければならなかっただろうに、どうにも中途半端さを感じずにはいられなかった。『GYU!』ではストーリーを更に単純化した分、キャラくらいはもう少し練り込んでほしいのだが。 | 転載可 |
この結果のURLは「