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1997/7/8 (1997.10.10 画像追加) 「光希たんの描き方」

 ママレのページを作るために何枚も光希たんの絵を描いてきた気がします。私が言うのもなんだけどなんつーか光希たんを描くコツみたいなものが見えてきた気がします。そこでそのコツみたいなものを忘れないうちにメモっとこうかな、そんな感じです。
 本当は描き途中の絵とか見せながら書くものだと思うけど、描き途中の絵というものが現在無いのでとりあえず画像無しです。一応最近に描いた光希たんは12話の光希たんなので、それを見ながらがいいかも。

 じゃ本文...

 光希たんに限らずどんなキャラを描くに当たっても、一番注意すべき事は「人はどこでそのキャラをそのキャラと判断しているのか」が大事だと思っています。「キャラ」、ここでは大きく「絵」と言いましょう。絵というのは文字と同じ一種の記号です、人はそれを見てそれをそれと感じる。人間の顔だってそうです、その人をその人と見極めるとき声やしぐさなども大事ですが判断材料として「どんな顔をしているか」を見ているのは納得できることでしょう。つまりこれも記号です。記号はある程度ちゃんと書かないとその記号としてみてもらえません。そして記号にはそれを描く上でいくつかのポイントと呼ばれる部分があります。例えば「工」と言う字、これを「土」とかいたら違う字になりますよね、でも横棒の長さには余り制限はありません、つまりこの字は上の部分がでるかでないかで判断していることになります。つまりこういう判断を下される箇所をちゃんと描けば、キャラはキャラとして見られると感じています。

 じゃあ、人はどこで光希たんを光希たんとしてみているのでしょう?
それにはいろいろな要素があると思います。声、動き、しぐさ、背格好、肌の色、髪の色、そして顔......そのほかいろいろな要素があると思いますけど、今回は「顔」についていくつか書こうかと思います。

   いきなり「顔」と言っても難しいので、ポイントに分けようと思います。


  1. 離れている目  光希たんの目の位置には実は非常に特徴があります。光希たんの目は結構離れていると言うことです。あごの部分から逆三角形(二等辺三角形:頂点の角度20゜くらい)をかいてその脇に目をかくといい感じ。ここの三角形の空間がポイント。
    目の中の光の数  それと目の中、(この辺から画像がないと説明しにくい)目の中の光は必ず二つです、対角線に一つずつ、上の方が多少大きい。小さいことのようで結構大事、試しに目の中に何も書かないとよく分かります。
     目の位置は結構下の方に書きがちですが、だいぶ上なんです。横のラインで耳に2割か1割かかるかかからないか位にとどめます。描けない場合は髪の位置が下すぎることが原因でしょう、髪の位置か輪郭をなおして下さい。


  2.  アニメのキャラクターにおいて「髪」の部分は大いなる判断材料だったりする、色がいろいろあることもその一つ。しかしママレにおける光希たんに関しては、髪型をちょくちょく変えるので、実は(前髪以外)さほど大事ではない。このために他の部分が似ていないと光希たんに見えないことが多い、自信がない場合は一番有名なポニーテールにするといいと思う、ごまかせます。
    前髪プレビュー  ではちょっぴり大事な前髪の話。前髪は光希たんがどんな髪型をしてもほとんど変わらなかった部分であることもあり、判断材料としてみていいと思う。ポイントとして、前髪の中心で分かれ、ほぼ左右対称(あ〜画像がないとやりにくい!)そして前髪の上部と下部の流れ方が違うということ。髪の分かれている数はさほど関係ありません。
     前髪の他にもちょっと大事なこと。頭部の形、まると思いきや結構平べったい、多少の誤差は許されるけどあまりにも円に書くと変になります。それと上にはねてるところ、結構忘れがちだけど無いと結構気になる。それでポニーテールを描く際に気にするのはしっぽはどこまでかということ、だいたいあごの上ぐらいまでで止めるといいようです。


  3. 点のような鼻  私のもっとも苦手とするところです。1mm違うと大いに違う...研究して下さい。難しいときは点のような鼻にすると楽ですけど。


  4. ギャグっている口  口は結構鼻に近づけます。鼻を「く」で書いた場合、「く」の頭の部分ぐらいをあけて口をかくといい模様です。まあ、口はいろんな位置に移動しますけど、今言ったのは標準位置です。難しいときはギャグらせましょう。

  5. 輪郭
     本当はこれが最初にあるんだろうけど...輪郭は目や口や鼻のバランスを決める上で大事です。でも多少楽しめる部分でもあります。あんまりあごを丸くすると子どもっぽくなるので気をつけましょう。


  6. ポニーテールの基本らしいです  耳の形についてはそんなに神経質になること無いと思います。ただ忘れちゃいけないのは、耳の上からでている二束の髪を忘れないでね、ということ。

  7. 全体的に言えること
     髪の量を増やし、目の位置を下げ、目の大きさを顔の50%ぐらいにすると、確実に幼くなります。その方が好きな方はそうして下さい。
 てなぐわいに説明してみましたが、どうです?わかりましたか?わかりませんね。ま、これよりかはわかりやすくするようにそのうち画像を入れたいと思います。それと疑問点、意見苦情などはメールや伝言板に書いていただけると、幸いです。それとこれを見て光希たんを書いた方は見せていただけるとうれしいです。できればこのページに載せたいと思います。

 では長々と読んで頂いたことに感謝いたします。


1997/10/12 「ママレ補完計画弊害」

 久しぶりにここに書こうかなって想った割にはてきとーな事を書きます。

 補完計画やら何やらやっているうちにママレという作品は世の中から忘れ去れれるぐらい古くなってしまったと思われる今日この頃、補完計画も順調とは言えないまでもちゃんと進んでいます。

 補完計画をしていると言うことは他の放送中のアニメと同時期にママレを見ていることになりますよね、するとママレ以外のアニメがクズに見えてきてしまう...そんな弊害を感じています。

 私にとってアニメを楽しめない状態になると言うことははっきり言って致命傷です。生きている意味を感じられなくなるとか生きる希望を失うとかそんなことも起こりかねないんですよねー、ぶっちゃけた話ママレを生きがいに生きていた時期もありましたし。(ちと大げさ)

 こんな状態に陥るのは私にとってママレが絶対的におもしろいことと放送中のアニメに来週が待ち遠しくてたまらないクラスの作品を見いだせないことと、私自身が最近好きでもないことに忙しいことにあると思うんですよね。ソフト数が多いのもまたしかりの気がするけど。

 じゃあ、またママレを生きがいに生きればいいじゃないかとか思うけど、いくらママレがおもしろいからと言ったってママレは「過去の作品」なんですよね。放送していたのは昔の話だし、メディア展開ももうないし。言ってみれば今ママレにおいて出来ることはすべて過去に於いてもできたことですよね。今ママレについてあーだこーだするのは言ってしまえば過去できなかったことをしようとしていることに他ならないと感じませんか?過去の尻拭いと言った感じでしょうか。これでは過去生きていた意味は見いだせても今生きる意味を見いだすのは不可能と言っていい気がするんですけど。つまり過去というものを今の生きがい生きるというのはなんか矛盾、ということです。

 ママレを始めてみたときの吸い込まれるような感覚、今一度味わいたいものです、新しい作品で。 さもないと…


1998/01/24 「データ的ページ」

 久しぶりに更新する度に気持ちよくない事書いて申し訳ないと思いつつも、今回もまた気持ちよくない話…。でもこれは語っておくべき内容の一つではないかと今は思っている。ちなみに上層ページの日記ページからもリンクするつもり、ママレのページのことだけど、内容は他に通じることもあると思うから…。

 ここ「ママレード・ボーイforever」はデータ的ものを強化していこうと思っている、というお話。

 ネット上には「個人ホームページ」と呼ばれるものがいくつもある、そしてそのほとんどが本当にその制作者の「家」そのものになっていることが多いと思う。つまり、自分というものがどういう人間なのか、何が好きでどうこうなのかということや、毎日の出来事(日記)、アニメ系で言えば「自分は〜という作品ののここが好きだ」というページが多いと思う。

 しかしここでちょっと「自分がネット上で何を求めているのか、何を求めていたのか」を考えてみると、これって必ずしも「見たかったページ」ではないと思う。ネットをやっていない人にインターネットについて聞いてみると十人の内九人は「情報がたくさんあふれている」と答えるだろう。つまり求められているのは「情報」の面が大きいと思えるし、そこを大事にしていかないと本当にネットは空っぽになってしまうと思う。

 求めてくる人は「情報」の面を大きく期待している、しかし世の中の個人ページにはそう多くの「情報」があるとは言えないんじゃないかな。

 でもアニメ系で言えばこういう「情報」的ものはオフィシャルページがする内容だし、オフィシャルページならしなければならない内容であると思う、個人ページが手を出すところじゃないはず。

 しかし『ママレード・ボーイ』に関して言えばそう言ったオフィシャルページは現在できていないし、作られる予定もないだろうと思う、でもそれは「ママレの情報が要らない」と言うことではないはず。

 だからここのページでは「情報」をベースに作っていこうということなんだ。

 例えば急に「キャラの名前が知りたくなった!」とか「あのキャラの声を当てていたのは誰なんだ!」とか「あの回の作画って誰がしていたんだろう?」とか疑問をもったとき、オフィシャルのページがない作品では個人ページを徘徊して、それに該当することが書いてあるページをそんなページがあるかないかもわからないまま探していかなければならないが、ちゃんとデータを抑えたページがあればそれがあるだけで「調べもの」には困らない、そういうオフィシャル的ページは少なくとも一つは必要なんじゃないかなと思う。

 (言い訳)というわけで、このページではなるべく自分を出すことなく絵もなるべく「似るよう」に制作…

 ここまで見ていくとまるで私は「オフィシャル的じゃない個人ページを否定」しているように見えるかも知れないが、そんなことはないつもり。個人ページはその「人」そのものを表していて、そこにあるのは「出会い」に似たものだと思う。それはたとえネットを始める動機になったものとそぐわないとしても、現状のネットの状態でネットを続けている人はそう言った「出会い」的ものにはまってしまった面が強いと思うし、それもまたネットの形だと思う。

 でも「ネットで調べもの」って結構難しいよね、探している情報そのものはあんまりなくて「それをふまえてどうこう」とかのページがほとんど。「調べものができるページ」の目印が欲しいとか思ってしまうのは私だけ?

1998/03/13 「教典」

 どうも後ろ向きなことばかり書いてよくないな…。書きたいことは結構あるんだよ、たぶん。

 「教典はページにできない」という言葉を聞いたことがあるだろうか? たぶんないだろう、何せ私が思っただけの言葉だからね。ここで言う「教典」というのは「自分の中で何者も犯さざる存在になっている作品たち」のことである。ほかにも「聖書」とか言われることもあるね、宗教は関係ないけど。

 もう少し書くと「教典」というのは自分を構成する基本とまでなってしまった作品を指していて、その作品と共に自分というモノが形作られたと言っても過言ではないというものだ。つまりこの作品なくして現在の自分というモノは存在し得ない、そんな作品。

 そういう作品だから、もしそれが否定されたり非難されたりして、そちら側の意見が正しいと自分が判断できてしまった場合、それは自分というモノが否定されてしまうこととそんなに違いはない。

 「自分を守るためにも否定されてはイケナイ…」

 また「教典」というのは「自分の中で全てが消化できるもの」でもある。その作品のいいところ悪いところひっくるめて全て自分と同化している、悪く言えば盲目的に従っていると言えなくもないが。だから他の人の意見なんてそんなに気にならない、いい方を変えれば「他の人の意見なんて必要ない」と言えてしまう。

 ネットに限らず「公表」すると言うことは大概「他の人の意見を仰ぐ」行為を含む。否定される意見は来て欲しくなく、他人の意見を必要としない「教典」のことについてのページは「公表」するメリットが何もない、デメリットばっかりだ。

 私にとってママレは「教典」ではない。私が教典としているのはドラを代表とする藤子モノであったりする。以上の理由により藤子系のページを作る気はない、誰にもわかってもらえなくてもこのことに関してはひとりでいられる、ひとりがいい。肯定される意見も否定される意見も怖い、自分以外の尺度で測られるのが怖い。自分に自信がないのと同様に自分の崇拝するものに自信がなくなっているのかも知れないが。

 私にとってママレは「教典」ではない、あえて言うなら「否定したくても否定できないもの」である。始まった当初からママレにはまってしまった自分を否定しようと努力していた、「こんな朝っぱらからやっている少女モノにぃ〜」とか「こんなのドラマでも見てれば…」とか「こんなカッコイイ男がそういるものか〜」とか頑張ってみても結局はママレの魔力に負けてしまう。そんな言葉は私にとって何の効力もなかった。

 どんなにはまるまいとしても、頭の中はすぐにママレでいっぱいになってしまう。それこそ「運命」を感じてしまうようなものであったと思う。なんか「教典」は「愛」で、こっちのママレは「恋」のような気がしてきたな、これは余談か。

 否定できないものというのははっきり言って「壁」である。自分がどんなにその壁を壊そうと、乗り越えようとしてもその壁はびくともしない。これは恐怖とも言えるものだと思う。でもこれは自分一人が乗り越えられない壁なのか、誰しも乗り越えられない壁なのかわからない。現にママレにはまっていない人はたくさんいる、乗り越えられるすべがあるならそれを知らなければならない。

 今の私はまだママレを否定する全ての意見と戦えると思っている。それは私の中にある全てのママレを否定しようとした意見に肯定側の意見が勝利して今があるから言えることである。これは他の人もママレにはめさせることができると言うことではなく、どんなママレを否定しようとする意見が来ようとも自分がママレを嫌いになることはないだろうと言う自信というものだ。

 しかしこれは独りよがりでは完全な自信にはならない。はまったことが正しいのなら数多くの否定する意見を自分の中で消化できなければならないし、正しくないとしても自分だけではそれが正しくないとはどうあがいても判断できない。

 多くの思いが必要である。

 したがってページを立ち上げることは大いに意味がある。他の人の意見は自分を前進させる鍵である、そして自分の思いというものも他人を前進させる鍵になることがあるかも知れない。

 そう言った意味もこのページにはあるんだなぁと思ったりする。筋の通った反論が見たいと思うのはそのせいなんだろうな。いつぞやの書き込みの『ひよこ時計PiPiPi』の話も実は結構楽しかった、自分の持てない感情がそこにあったような気がしたから。結局レスはなかったけど。

1998/03/20 「ママレード中毒」

 補完ボードの方にも書いたような気もするけど、最近よくママレを見ている。そしてとことんママレに弱い…。

 この「とことん弱くはまりきってしまう」という状態を私は「吸い込まれる」と表現してきた。実際今までしていたことやこれからしようとしていたこと、そして自分の存在さえ忘れてモニターに釘付けになってしまう状態は「吸い込まれる」と表現していいと思っているし、実際一応的は得ていると思う。

 でもこの「吸い込まれる」だけでは表現しきれない状態を引き起こしている(いた)ことを少し忘れていた。

 それは某所で「中毒」と呼ばれていたもので、毎日何かしらの形でその作品を見ないとおかしくなってしまいそうな状態のことだそうだ。言われてみればそこまで症状はひどくなくても私は確実に「ママレ中毒」にかかっている。放送当時は1週間以上ママレが見られないとママレのことで頭がいっぱいになり授業どころじゃなかったこともあったことも思い出す…(なかなか朝見られなくてね…、起きられないわけじゃないけど親と見るわけにもいかないし…、水曜日ぐらいまで見られなかったこともあったよ)8話を取り逃したときなんかその週は情緒不安定でねぇ、自己嫌悪や今後の対策やビデオはいつ出るのとかずっと考えてたから…。

 考えてみれば「この状態を『中毒』と呼ばずして何と呼ぶか」ぐらいぴったりくる言葉ですな、これは。

 そしてこの中毒、今も全然直ってない。ママレが終わってからも、暇を見つけてはママレを見ていたような気がする。その理由が「ビデオの編集」だろうと「編集後のチェック」だろうと「ちょっと気になるところが…」だろうがそんなことは実は全然関係なくて、結局は見たかったんだと。よく考えれば今だって「ママレ補完計画」なんてものを立ち上げてママレを見ている始末…。それに中毒と言われれば確かに「ママレ断ち」をしろと言われたら気が狂ってしまうかも知れないとか思ってしまう…。こりゃ相当なもんですな。

 考えてみれば情けないな、もういい年の奴が女の子向けアニメ中毒なんてさ。ま、そんなことを気にするのはとうの昔にやめたけど。

 この「アニメ中毒」というもの、かなりの所で自分に合う部分がないとかからないと思う。だから私は「私とママレに普通にはまっている人は何か違うのでは?」という疑問が生まれると言う結果に。そしてページ作りの理由にもなるわけね。

 やっぱりページやめられないよ〜、ぁぅ。

1999/03/26 「ぼやいてみる」

 こんだけ更新がないと、新しい方を上にした方がいいなとか思ってしまうけど、今更変えるのが面倒なのでやめとく。予定では今頃は全部一応の完成をしているはずだったんだけど、なんか全然予定通りすすんでないし。補完計画の方もなんか尻切れトンボになってしまって、やっぱり私の人徳がないのかなぁと思ったりもしてます。

 うちのページがあんまり盛り上がってないのが私のせいでこのページがあったから他のママレページができなかったとすると、ママレページを発動しない方が良かったのかなと、なんか最近後ろ向き…。実際ここのページ群で自分しかできないことをしているのはここのページ(想い)しかないのよね。

 他の作品のページとか見ていると、その作品&キャラクターに対しての「愛」をすごく感じる。そして自分のママレに対する「愛」はそれに比べてすごく足りないことを実感する…。

 やっぱ「その作品しか見えてない」ような人がページを作った方がいいのではないのかな…。わたしはママレだけを見てきたわけじゃない、上層ページを見ればわかるけど、ママレファンよりアニメファンの側面の方がよっぽど大きいと思う。アニメファンしててもママレファンはできると言われそうだけど、アニメファンもしているママレファンと、ママレONLYのファンじゃ愛の深さがやっぱり違うと思う。そんな人はいないのかなと思っていたりもしたことあるけど、結構そんなこと無いみたいなんでね。

 私なんぞがページを作って良かったのだろうか…。

 確かに私には愛が足りてない…。そう言えば買った原作本も古本で買ったやつだし、別にお金がなかったわけじゃないのにLDBOX買うのをずいぶんとためらったもんだ、あの頃はそれで結局予約できなくてすごく悔しかった覚えがあるのに(その頃は本当に予約しないと買えないと思っていた)、某アニメショップで見かけたときも買わなかったし。結局LDはずいぶん経ってから古本屋で見つけて買ったのよね。グッズにいたってはTVCM程度の知識しか持ってないもんね。

 いろいろ書いてきたように自分の中にはページを作る意味がある、でもそれで他のページが見られなくなったとすれば、それはすごく悔しい。そう、やりたかったわけじゃなくて見たかった…、待ってたら誰かが作ってくれると分かっていればやらなかったかも知れない(もちろん協力はしますが)。私の愛はそんなもんです。

 でもでも少なくとも私がページを始めた頃は日本語圏内にはちゃんとしたママレサイトはなかったし、どうしても見たければ私ぐらいの愛でもページを作るしかなかったと思う。だからといって足りてるわけじゃないから、その辺がつらくなってくるわけなのよね。ママレファンの方たちがここのページに集まってきたとしても、私はその人たちの上にいられないし、自分の足りないところを感じてしまう。自分でした事ながらちょっとページを大きくしすぎた感じ、もっとこじんまりしてても良かった。

 そんなわけだから、私より愛の大きなお方がやる気になったら、うちのページを全部上げてもいいかなとか思うわけです。でもそんなお方が現れないとなると、時間がかかっても自分でやりますから。

 んで、何が言いたかったかというと、要はあんまり期待しないでって事。私は全然ネット一のママレファンじゃないわけだし、ここを読んでいるあなたの方がよっぽどママレ好きなのかも知れないってことだから、このまま私にやらせようと思うのならあんまり期待しないでって事ね。

 ま、最近実はそんなに期待されてないことがわかったんで、のんびり行くことにしました。忘れられても、私が見たいのは確かだし。

1999/08/25 「“ママレード・ボーイ”の略」

 アンケートの結果、結構期待されているらしい日記、たまには書こうかとはいつも思ってるんですよ、ええまあ。でもここが一番いいという人はいないんですね、まあ当然ですけど。

 ちょっと前の話、吉住渉センセの新作『ミントな僕ら』4巻の柱の所になんか書いてありましたね。「ママレード・ボーイ」を「マーマレード・ボーイ」にしなかったのは音の感じを大事にしたとか。んー、これで長年の謎が一つ解明されました。

 そうなんです、Marmaladeを“ママレード”と読むのはかなり珍しいことなんですよね。検索サイトで調べてみましょう、“ママレード”で検索をかけて料理のページはあんまり引っかからないのです。つまり、Marmaladeを“ママレード”と読むのは『ママレード・ボーイ』の特徴としてとらえていいと思うんです。

 と言うことをふまえて、本題「“ママレード・ボーイ”の略称は何だろう?」と言う話。

 『ママレード・ボーイ』の略称はいろいろあるみたいです。現時点で目にした、聞いたことのある略称は“ママレ”、“ママレボ”、“ママボ”、“M.B.”、“M-Boy”等々…あれ? 思ったより多くないな…。

 んで、“ママレード・ボーイ”の略称は“ママレ”で決まり! と言うのが私の見解です(私の文章読めばわかると思うけど)。理由は上に書いたとおり、Marmaladeを“ママレードと読むのは『ママレード・ボーイ』の特徴であるとしていいと言うことからです。響きもいいしね。略称は響きが良くて、それだけでもとがどんななのかすぐ思い出せるようじゃなくちゃね。

 あ、でも好きなように呼んでいいと思いますよ。これはあくまで私の見解。

1999/08/25 「“ママレード・ボーイ”の“ママレード”と“ボーイ”の間って“・”なの? “[Heart]”なの?」

 ついでにタイトルの謎シリーズ。そんなことどうでもいい話のような気もするけど、ま、ネタだし。

 これは最初に結論を書いてしまおう。間の記号は原作の方はほぼ確実に“・”です。そしてアニメの方はどっちだかわかりません。

 原作の方はなぜ“・”かというと、原作の表紙を見るとママレードボーイになってますよね。これはハートのフォントがないからとかじゃなくて、タイトルのママレード[Heart]ボーイと言う表記がデザイン上“・”を“[Heart]”と表記したに過ぎないと言うことを表しているんだと推測できるわけです。よって原作は『ママレード・ボーイ』で決定。はァよかった。

 一方アニメの方はどうなんだろう? 原作と同じと言ってしまうのは簡単かも知れない。でもこれがまたよくわからないんだ、アニメの場合原作と違って決定的なものがないからねぇ、決定的なものはちゃんと画像になっているから結局どっちだかわからない。あ、映画は日本映画データベースによると[ハート]らしい。たぶんこれはこう登録してあるんだろう。でもこれを正しいとしていいかはやっぱりわからないわけで。

 基本的に“・”の方が多いけど“[Heart]”がないわけじゃないし…。最近ので言えば、いつのだったかな…アニメージュで関弘美さんのインタビューがあったときは全部“ママレード[Heart]ボーイ”になっていた([Heart]は白抜きでしたが)。ただの記事ならまだしも、関弘美さんのインタビューでそれだから、悩んじゃう。

 そんなわけで、アニメは謎なわけです。たぶん企業とか雑誌によってそれぞれ勝手に決めているんだろうね。

 かといってそんなことに振り回されると言うのもしゃくなので、うちのサイトでは統一します。“[Heart]”はデザインと見なして、“ママレード・ボーイ”と表記することに決定。Windowsには[Heart]のフォントないから面倒だしね。(この[Heart]は画像ですから)

 あ、“ママレードボーイ”(←点なし)と書く、これは間違いです。ええ、きっと。こう書くとファン度が薄いと見なされてしまうかもですよ。

2000/03/27 「ダイヤラーって…」

 ママレードボーイのグッズのひとつに「ダイヤラー」というものがあります。覚えてますか? 電話をかける際に、受話器に当てて音を出すことにより、ダイヤルしなくても電話がかけられる便利な代物です。一時期この手の、音を出して電話をかけるものがはやりかけましたがすぐ廃れたような。公衆電話とかからも使えるので、電話番号を一度登録すれば覚えなくていい…のだけれど、なんで流行んなかったんだろ、もう携帯が出始めた頃なのかなぁ。それとも「電話番号を覚えていない」というのがあまりにもお子様っぽかったからか…?

 そんなわけで超お子様の光希は国際電話を簡単にかけるグッズとして遊からこの「ダイヤラー」をもらうわけだけれども、明らかに商品展開を狙っているのだけれど、この「ダイヤラー」、予定商品名(当時)「恋する気持ちのダイヤラー」は発売されていないらしいんです。

 そういう情報を集めて満足手帳で知ったときは「へぇ、そうなんだ@すず」ぐらいにしか思ってなかったのですが、先日なにげに恋スタを読んでいると、そこのプレゼントページにダイヤラー(写真付き)が! こりゃびっくり。商品自体は出来ていたんだねェ…。つーか何で発売されなかったんだろー、やっぱNY編の罠? 売れないと思われたのだろうか、商品に欠陥でも発見されたのだろうか…、謎である。

 つーかそのプレゼントで、ダイヤラーの当選者いたんですか!? 謎過ぎ。当たった人(いるなら)それレアすぎ。

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