売れる矛盾


(2000/07/10)

まだ見ぬ、聴けぬ。ゴスペラーズ通算6枚目のアルバム。
ところで「僕ら、ホント今調子良くて。ええ、調子に乗ってます。調子に乗って、音楽製作、してます」、更に決め台詞に「ついて来るならついて来い」と言い放った、あの段取りを怒涛の「五鍵」ツアー全国巡回中ずっと行っていた村上さん率いるゴスペラーズだったんですけれど、今年(2000年)4月分会報文面からすると「やっぱり…」
悪い予感の的中を感じずにいられない、というのは私だけなのでしょうか。
「五鍵」ツアー、この台詞に「後からどうなったって知らないけど」と呟いた、個人的初回、初日となった横浜公演。だから自分たちの発言に責任と過去の重圧を残す行為は後からアーチストの足を引っ張るから絶対にダメなんだってば!!良い時の調子でずっと音楽製作なんて出来ないんだから(爆)
だから。4月の会報。個人的には起爆材料(結構、デカい事実を孕んでいる会報だってご存知でした?詳細は個人的お話しなんてのをするしかないんすけど)のパレードと化した中、私が「どうなのさ」と思ったのは「アルバムについて」のメンバーの簡単なコメント。なにせ全員が「○曲しか出てこない」という言語表現からして、微妙なネガティブさを孕んで、それがドンドンドンと並んでる…。
良いのか?それで。
と思った瞬間、「そうだよな、5年間、アルバムのリリースタイミングが決まった中で製作しているんだ、ストックも作るほど自分たちの音楽に磨きをかける時間、余裕も無いわな…。どんどん消耗してては」 と思ったわけです。
ともあれ、前置きはそこまでで本題突入。
 

ところで。ゴスペラーズの今までリリースした5枚のアルバムを並べてみると「1枚目のアルバムの色と5枚目とが似通ったものである」と、あなたにも気付けないでしょうか。要は昨今流行のR&Bという色が、この2枚はしっかりと香っているのですね。1枚目のアルバムに関して、確かSONYが当時無料配布で一部レコード店に置いていた『GETS!』(←新人をメインに特集した冊子)での『MO' BEAT』もしくは『二枚目』のインタビューかと思いますが…。出典が何処なのか忘れているのは、私は手元に紙の資料を残さないで己の持つ「脳」という曖昧な記憶媒体だけを頼りにしている証拠なのですが…

「アクセル全開で10曲出して、ダメを食らって、とにかく曲を10出して、そのままアクセル全開でそれで 突っ走るしかなかった」

あのアルバムの持つシンプルさの意味、ここで捉えられないでしょうか?あのアルバムの持つ、がむしゃらさ。枯渇感。ある種、シンプルな作りなのに、逆に熱が届くもの。それだけに文句のつけられない、あの感じはここから生まれたものだということに。曲も満足に作れるわけじゃない、アレンジも然り。じゃあスキルも技術も殆どない、若い彼らは何が出来るか。彼らは歌うことにシンプルに対峙している。これしか出来ないから、これだけが出来ることだからという潔さまでもある。歌うしかない。
となると、サウンドメイクまでは頭、んなに回らないでしょう。曲を作っても「こういう狙いで作ろう」とは決して思わないことでしょう。ただ今まで聴いたもので音楽製作をしてゆくと、結局、好きなものなり、好きな作品に近づいてしまう。それは決して悪いことではなく、どうしようもない事実として。リスペクトなり影響として。だから、当時の彼らには「こういう曲を出すと売れるよ」というものもない、それを考える余地は当時の彼らには殆どなかった、と私は思います。とにかく曲を出すしかなかった、それだけだった、だからこそ、それは彼らの言う「アクセル全開」という言葉に集約されるのだと思うのです。
 

そして、5枚目のアルバムでは逆にそこを意識した出し方をしているんです。
つまり彼らのスキルも向上した上に、自分たちの好きな音、やりたい音を、商業音楽として「売れる」ものとして出そうという意思さえ、そこには見え隠れするのです。当時のインタビューを読むと、兎角、強気なことを言ってなくもない…、と(今でも)思えます。昨今の女性R&Bの動きを横で見ていて、男性にもR&Bは出来るのだという意思表示。その手の薄い分野へのメジャーどころからの殴り込み。自分たちが新しい場所を開拓すると言わんばかりに。彼らもマーケティングを読んで出してなくもない、そんな一枚。私は、そう睨んだんです。
だから彼らはシャツのボタンをはだけなくてはならなかった(爆)それは明らかに「俺たちの音楽をする」という明確な意思表示をも加味してなくは、ない。
意思表示。
そこまで思った時に「あ、間の2枚目から4枚目のポップス路線って…」どういうことなのか、気付いてそこにある見えない裏までも読めてくるのです。彼らも思わないところなのでしょうけれど。けれど、彼らが自らそれを口にしていることでもあるんです。でも、だからかもしれません。音楽を生業とするならば当然起こるべきところが見えるんです、はっきりとしたひとつの事実にぶち当たると思いました。私たちが単純に口にしている 「あの人売れる」「売れない」「今度ブレイクする」「全然(ブレイク)しない」ではなく、音楽が単純にビジネスで、プロのものである。としたならば、ということを置くと、それはもっと重たいところに。当たり前のところにも行ける筈なのです。

彼らは、どうしても売れなくてはならなかった。
自分たちが自分たちのペースで動くためにもある程度短い期間にゴスペラーズの存在を知らせる必要があった。と同時に、彼らは一定数で数を確保する、そうすることで世間的に数的にも売れる認知を取るため、それだけはまずは先手を打たないとならなかった。んじゃないかというところへ。

それに気付いた時に、『MO' BEAT』時の「坂道発進」ツアーのパンフレットにある、酒井雄二氏のコメントの「生々しさ」に気付くわけです。…私、この人のコメントに生命感を感じたの、これと「衣食住」ツアーのパンフぐらいしかなかったりするんだけど(自爆)どうしてなんでせう。めちゃめちゃシンパは感じるのですけど生々しさを欠くんですよ、これでもメンバーの中で一番彼が好きなんですけれど。
 

"他にいない"といえば、いろんな音楽がひしめき合う’97年なのに、ヴォーカル・グループがなぜか少ない。キングトーンズやラッツ&スターズ以降、生きの良いヴォーカル・グループが活躍する場所は非常に少なかった。(中略)もしも、ゴスペラーズがコケたら、きっと世の中は「ゴスペラーズは駄目だったね」ではなく、「ヴォーカル・グループは駄目だったね」となってしまうだろう(ちょうど、格闘技の大会で、負けた選手よりも負けた選手の流派がけなされるのとそっくり同じだ)。
坂道発進ツアーパンフレット「GO UP HILL」より、酒井雄二さんのコメントより一部抜粋


読み返してみたら、村上さんに至っては「職業上の願い:売れたい」とまであったので、ここまで話を持ち込んだ私も開いた口が塞がらない状態へと推し進められたのですが…。そういう結論を出すまでに至ったのはなぜか。なぜ、ここまで私が「売れる」ということに拘るのか、それはある話が起因しているんです。
Sing Like Talkingの佐藤竹善さんの話で、初期、売れなかった時に人から(察するに業界の関係者なのでしょうね…)言われた言葉に、こういうものがあったのだそうです。
「売れてからだよ、売れてからやりたい音楽をやるといいんだよ」
この瞬間、彼は即座に「それは違う。僕らは売れてからやりたい音楽をするんじゃない、(SLTで)やりたい音楽をやって売れるんだ」と思ったのだそうです(結果、その後のシングル「Steps of love」を足がかりに次のシングル「La La La」、その頃発売された4枚目のアルバム『0』で、人気が上がりブレイク寸前と化す。そして5枚目『Humanity』でオリコンチャート3位に食い込み、6枚目『ENCOUNTER』でオリコンチャート1位となりアルバムアーチストとしての地位を確立する。その後、ソロで出した佐藤竹善のカバーアルバムはオリコンチャート5位に食い込んだり、ジャズもののアルバムを別ユニット(Salt&Sugar)で出してヒットさせたり、SLT自体で出すアルバムでアルバムのロングセールスを記録したりして、今の地位があるといって過言じゃない。思うに、彼らの飽くなき研究心と自己鍛錬、音楽に対する姿勢はミュージシャン<身内からの人気を高めた要因のひとつだと思う)。
私が「売れる」「売れない」という話をする時は以来、必ずと言って良いほど、この話を思い出して、アーチストに問い掛けそうになるのです。 単純に「ブレイクする」「しない」の指標だとか売上だとかよりも、より本質的問題を投げ掛けそうになるんです。
「あなたが今、やりたい音楽、本当にしてますか?」
事実ながら、売れてから音楽性の変わったグループは多いです、ひとつは「売れた事での副作用」で、もうひとつが「売れる音楽をしてから、もっと幅を広げよう」というやり方で。それまでは育成即売なのも、ひとつの形だとは思います(が、音楽製作する人間には酷でしょう)。だからかもしれないのですが、ありがちな傾向にオーディエンスと共に「僕らも育って行く」という共存意識を前面に出して行くやり方を取る事が本当に多くなったと思います。でも、それは10代くらいしか通用しないでしょう。
それだけに当然生まれてきてしまったのが「良いんじゃないの」と少し前まで思ったグループ、個人までもがここ数年で「メジャーに来て、伸ばし切れないままにレコード契約を切られたり、自ら更新しなかったりして、埋もれたまま、結果、インディーズへと行く」姿、なんですよ…、それくらい粗雑に即売させられていなくもないし、現場で大切に育てられていないんです。伸びてきても発露する場所がないならば、形はどうであれ、ひとつの「売れている」目安なり、とにかくがむしゃらに成果を出さないとならないのだと気づくのです。
 

「売れたい」
「売れなくてはヴォーカル・グループとしての成功とは言われない」


売れる事は、簡単な結果をあげてしまえば、より多くの人に聴いてもらう事だと思います。その数がレコード枚数になるのだと思うのです。しかしそれは正直に、かなりの重圧もあるし、事実、それは彼らにも暗にあったのだろう、と思います。ごく普通のバンドでも「ブレイク」時期の模索などは存在するし、そこが葛藤要因なのに、特殊なグループ構成だけに、更に彼らは全てにおいて自らで答えを出し、先陣を切らなくてはならなかった存在でもあったということを考えても「難しかっただろう」と思うのです。そして、5年で今の状況があることは、正直、評価しないとならないと思うんです。
そこで彼らは「何をして僕らを知ってもらうのか」考えます。一番早いのは目の前で見せる事。見せて「もう一度」と思わせれば良いわけです。事実、そういう戦略だと思います。というのは彼らはステージを見せることで、そこで集客を集める事で答えを出し続けるしかなかった、と思えなくもないからです。それくらいツアーの本数が多いです。若手でも多い方じゃないでしょうか。
だから、かもしれないです。アルバム製作とツアーとの期間が定まっていて、尚且つ、タームが短いんです。それくらい逆に、ステージを、ライブを戦略として意識し続けたのだと思うのです。が、それが逆に「ライブが最近」という私のコメントになっていくんですけれどね…
一考願います。
良いものをお見せましょう。プロの歌を聴かせましょう、だから客に金を払わせて観せるのでしょう?
それ相当の完成度が求められるんですけれども、いかんせん、バンドの音の完成度は言っちゃ悪いですが、他と比べて低い方です、ゴス。むしろバンド使いは彼ら、本当に下手です(爆)せっかくK松さんの元マネージャーが作った事務所なら角松人脈の腕利きミュージシャンのひとりくらい、ライブで呼べるだろ、と思うくらいです。んなに上手な人と組んでないですよ、せめてひとりでも大御所に来て頂いてツアー中「鍛えてもらう」形で「より音楽を高めあう」ということをしないと彼らも成長しません。それに身内で彼らに対抗するほど楽器でやりあおうとする人間がいないんじゃないんですか?馴合いの馴れの果てほど音に緩慢さを与えるんです、緊張感を奪うんですわ。それもあるけれど、むしろ私は逆に楽器チームに彼らが押し切られるのだと思います(苦笑)だから、手厳しく言い切りますが。
今年4月に音がズレた「Reverb」をしてまうたGrapevineさんチームよりも酷いと思うほどです、ただGrapevineチームの場合、彼らはそれでも此方が怖いくらい生々しいし、此方にこう伝わるものがあったんですけれど、そういうものさえも、リアル感すら感じないんですわ、あのメンツ。特に、同じKGさんがバンマスでも。と、私は言いたいです。私にはミッチーほど滾るものを、ゴスじゃ彼からは全く感じないんですよ…。申し訳ないですけど。KGさんのことは、はっきりいって買っています。古内さんの仕事の頃から知っているので、相当古いでしょう。

「Ki/oonはSONYの飛び道具だから」
彼らの所属レコード会社を称した言葉に、こういうものがあります。
けれど、それを言われて納得してしまうほど、良くも悪くも事実だと思います。じゃなかったら、同じような切り札を出して。同じSONY系列、同じ世代だろう平井堅さんがこうもすうっとメインストリームに躍り出なかったんじゃなかろうか。とさえ、私は思うのです。
彼のしたこと、ゴスペラーズのやったこととベクトル、アプローチは似通っているものの要所要所で対称的な構造を孕んでいるんです(というのを表、のゴスページでも書いていたんですが、前からこの現象を見ていて素直に思ったことでした)。 同じようにR&Bで攻める、ポップスフィールドに近かったところから、手の薄い分野を攻めたのは一緒です。しかし、平井サイドは「楽園」でも「why」でも、その声を張り上げることはしなかった、と思います。松尾さん率いるプロデューサーチームが敢えてそれを「させなかった」と言っても良いほどに。
しかし。ゴスペラーズは違った、「熱帯夜」でも「逃飛行」でも目に見えて明らかに咆えるボーカルに徹していたんです。調子が良ければ聴き応えはあるものの、失敗したら目も当てられない結末を孕んでいるのが、この手法の特徴です、危険が高い「ハイリスク」な手法に出てなくもないですけれど(苦笑)………、同じように歌詞も「Hめ」、なのだろうと思います。そこは同じとしましょう。
その視覚表現なんですよ、肝心なのは。ゴスペラーズは向こう(海外)のグループ宜しくその服のボタンを外して直接的セックスアピールに努めています。が、対する平井さんはインタビュー(「so-net music on line」インタビューより)こう応える。
「ボタンを外さず、直立不動でどこまでHなことを歌えるのか」
引く事が美徳とされがちな日本という場所で、自らを「引く」ことで逆に彼の歌を前に出す技に出て、それによって成功のヒントを掴んで推し進めた平井堅さん。対するゴスペラーズは逆に自らも、その歌も、兎角前に押し出したんです。良い意味でアメリカンな手腕で挑んだだろうと思うのです。が、その結果が吉と出たか凶と出たかは、それこそ皆様各自の判断に任せます、この間の衆議院選挙の様<「負けたけれど勝ったのだという自民党」だと私は思います(自爆)

彼らが売れる、イコール、そのヴォーカル・グループの認知ということ。
それは早くに手に入れないとならない、彼ら最大の切り札であり全ての免罪符であったように思うんです。良い音楽をすれば伝わるだろう、最初、そうも思っただろう一枚目のアルバムはさほど認識されず、徐々に浸透する形になったんではなのでしょうか。
思いの外、一般への理解の少なかった一枚目のフィードバックを図っただろう二枚目のアルバム『二枚目』の「侍ゴスペラーズ」という曲<声見本という表現だったり、その後にあった『笑って!いいとも』半レギュラー出演だったり。じゃないのかな、と思うんです。認識される、こういうグループがいるんだと思わせるもの、のとっかかりが欲しかったんじゃなかろうかと思います。
この『いいとも』出演が彼らの最大の博打であり、世間の耳目を集める一大勝負であり、意外と「ボーカルグループで売れるか売れないか」の境界線を見定める試金石になったのかもしれないです。だからか、その結果を考えるだけで『いいとも』のゴスの出演の評価は私、本当に低いです(爆)御免なさい。
あそこから「ゴスは骨太のアーチスト」だと思った人とは確実に訣別して行くと思います。選んだとは思えないTV出演も過去にはないわけじゃなかったです(なんでスポーツ選手の宴会席で歌うために呼ばれたのだろう、ゴスペラーズとかいうのを実家で観て、親との会話不能になった過去の私がいます、歌った曲<「Charming」に関しては嬉しかったんだけど♪)。それは「ゴスペラーズというグループを知らせるため」ただ、それだけに目的があったんじゃないのかと思えるんですわ(苦笑)とっかかりがないと、その音楽に手を触れる事はないでしょうから。
しかし、彼らは「そうしても、僕らの音楽は伝わる」と思ったのでしょう。それは伝わってなくもない、と思うのです。しかし彼らはもっと甘えた事を思っていたんじゃないのでしょうか。
つまり甘えを承知で言えば「僕らが思うことはファンにも解るだろう」と思っていたんじゃないのでしょうか。小さい存在なら、それは言葉にしても伝わるんだろうとは思うんです。しかし、それを彼らがする頃には「もう今更出来ない」状況だったのかもしれないです。
それほどまでに、彼らが思う以上にTVの反響は大きかったと思います。同時に間違った認識がもしあったとしても訂正を入れることもTVというメディアの巨大さ故に許されなかっただろうし、それによって「音楽の解る人が聴きに行く、ブレイク前のゴスペラーズ」の枠からは確実に外れ出していった…、それは次第に彼ら自身にも「僕らが思うことは、思った以上にファンには伝わっていない。それを苦しくとも言葉にしないと、嫌でも態度に示さないと「そうなんだ」と解らない人もいる。それ以上にそんなことをしても、「ゴスがいるから」というだけで何とも思わない人も多いんだ」ということも知ることになるんだと思うんです。
そう、私が言いたかったのは「売れるために手段を選ばなかった」ことが、逆にそうしてそこそこ売れた事で「ゴスペラーズをしている彼らが今、自分たちが全くファンを選ばなかった」ことに気付いたんじゃないか、ということもあるんです。ファンに対する意思表示をあまりゴスには感じてこなかっただけに、私には多彩なファンの構図を見ながら、最近(ここ一年)のライブを観ていて「んー」と思ったことでもあります。

長くなってしまったんですけれど…
なんだか書きたいことのこれでも半分程度しか出せていないんです(自爆)けれど、結論から言うと「売れるために生じてなくもない矛盾」がもしかしたら、彼らにもあるのかもよ?ということが先ず、彼らを観ていて、いつからだろう、…、閉塞感あるかもなあ、こりゃ。ということは『MO' BEAT』というアルバムでの感想ですが。その前のアルバム『二枚目』時点で、その萌芽はないわけじゃなかったんでしょう。ただ「閉塞感」というニュアンスを嗅ぎ取れたので変化に気付きかけたのが、この時期だったのかもしれません。
『Vol.4』で「打破してポップスする事に開き直ったか」と、曲の良さに震えながらも思ったくらい、性格が歪んで捻じ曲がった人なので(自爆)
こう、ふりかえると。1枚目のアルバムに劇爆した人間が続けて聴いた2~4枚目のアルバム。明らかなポップス路線をリアルタイムで感じた時からなのでしょう。5枚目で「戻した」と思ったのも、5枚目で「売れる音楽」云々だのを考えてしまったのも。けれどもそのアルバムリリースの時々に「ゴスも変わったね」「売れる事しかしなくなってるもん」と冷やかした時、で、しょうかね、やはり。私の頭にはそんな思いが、行動の裏に「売れたい」ことを形にしたいという強欲のちらつきを、どこかしら、何だか感じつつあったんでしょうね。
歌いたい歌を歌ってきているのは事実でしょう、それは間違ってないし、その歌は真実だから心をうったわけで、だから逆に強く言い切るほどに、その時々の彼らには何も嘘はなかったと思います。ただ、自分たちをこう全面に出すのに明らかな試行錯誤の末、若干ばかりの遠回りをしています、彼ら(起爆)と言いたいのかもしれないです。こういう文章にしてでも。
それまではまだ狡猾に騙され切っていたんですが(苦笑)それを、この手最大の「決定打」として痛感したのが「あたらしい世界」という狙い澄ました(誰)かのような恋愛もののバラードだったんです。曲の印象からして抜きに出たものがない、凡庸とした調子だった、しかもあまりの直球さ。この直球さに開口一番「下世話だなあ(謎)」、歌い方にしてもふたりもリードを採るのならば「もっと違う出し方も出来なくはなかったの?」、ドンドンケチをつけるくらいにひたすら好印象が持てなかったんです。あまりにも定番過ぎるピアノのイントロ、締めに出される英詩。途中から入ってくる楽器群(特にそのストリングスが…、ポップスでの弦楽器モノが好きなだけに。あの弦のアレンジにもうるさいですが、あれは及第点でしょう)、トドメの歌詞はベタベタ恋愛するだけまっしぐら…。
をい、結婚式仕様の曲じゃない、これって。そっちに需要を求めたんかい(苦笑)で、一度キレちゃったんですよ。ブチっと。まだ「BOO」でも「夕シャフ」でも寸前で切れなかった人が(自爆)
 

逆に、そうやって自らを切り出した結果として目に見えて、噴出してしまったもの。その最たる形だと思ったのが『五鍵』序盤のライブ論争の意見の分かれ方なんだと思うんです。
「ゴスペラーズのあたらしい世界」は、前に出してなくもなかった音の世界の筈でした。それまでと一緒のレコーディングで、一緒のバンドメンバーで。それを「あたらしい世界」と言い、更に「ついて来い」と言い切ったのが『五鍵』というツアーでした。だから、私は「G5」を観終えた直後「村上てつやは人を切る事が出来ない」そして「中途半端な「あたらしい世界」じゃ、本当に「あたらしい世界」を観たい人は納得しないですよ」と発言に集約されるのだと思うのですが…
その序盤戦で見せた「僕らを見上げる様に」と言う言葉に集約されるだろう、ファンの熱を目前で遮断してみせた態度が、私に「何さ」と怒りを覚えさせたものの正体なんだろうと思うんです。「同じ人間なのに、そこまで偉いと思っているの」と思ったところもないわけじゃなかったんです。高飛車になるな、と思ったのもあるんです。つけあがってる、と思わないわけじゃなかったです、それくらい心が荒れました。
なにより「心を開く」じゃないにしろ「此方に、ファンに見せて」くれるものがないと、本当に心に響く歌にはならないだろうと思うんです。だから「此方を見てしっかり歌った」だろう静岡シリーズの2本(沼津・浜松)の評価が高くなるのです。それ、戸田でも横浜でも出来ることじゃないのかな…、にしてはアレ、高い授業料だと思いますよ。教訓にはなるけれど(苦笑)あの横浜なら私に日比谷野音でのGrapevineを観せろや!!<8月28日日比谷野外音楽堂にて、と思ったのは、まあ、思ったことでもあるんですがー(大苦笑)
 


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