拮抗する声の行方は


(1999/09/07-08)
◆人物表記が敬称略になってますこと、ご了承下さい。
 

ゴスペラーズを知るとき、最初に耳にするのは、たぶん彼らの5人のうち、リーダーの村上か黒沢の声だろうと思う。事実、彼らふたりがリードボーカルを取る曲がゴスぺラーズの切ったシングルの大半を占めることを鑑みれば、ゴスファンの初心者でも肯けるだけの事実だ。しかし声質が似てなくもなく<他の人が特に判り易いというのもあるが、それでもともすれば「どっちが黒沢さんで、どっちが村上さんなのか判らない」という苦情?にも似た声が多少は洩れ聞こえるのも、それはそれ(苦笑)。また事実である。
とかいいながら、彼らのボーカルスタイルは全然違う。と思う。少なくとも私はそう思う。
それは彼らが「同じ高校の同級生なのに全然性格とか違うんですねー」と、頭の足らない女性DJあたりから言われがちなほど、互いがそれぞれの個を持ち、ゆえにかけ離れてると思うのと実のところ、なんら変わりがない。そして声ほど性格の出るものもない、少なからずも私はそう思うからこそ「ボーカルが違う」と言うのである。 それは至って当たり前のことでもある。兄弟だとか血縁関係があるとか(最近ではとかく夫婦扱いを受けてるがそれはさておいて)一切ないのだから、当然の摂理だと思うのだが。

ゴスの歴史はともすれば、村上と黒沢という同い年のボーカリストの能力の拮抗する様の証であるのかもしれない。と、最近特に思い始めた。<ふざけ半分ではなく。そうでなくともとかく引き合いに出され、比較の対象になるのが村上と黒沢の二人だと思う。どうしてか後輩組ではないのだ。酒井と安岡を同じ土俵に乗せる人はいないだろう(苦笑)。
まずその外見からして、差というのか違いがあるのは明白だ<ミレバワカル。
上背のある方といえなくもない村上と、男性にしては小柄な黒沢(実に余談だが筆者の身長は171センチ。過日シングル「あたらしい世界」握手会@HMV新宿SORTHでのこと、高さ7センチ近いヒールを履いた私を、脅えた眼で黒沢氏が見上げてたのをよぉーく覚えてる、と言ってたところ複数意見が多数上がった。どういうことだ!?)。 メンバーからも「存在自体が威圧なんだよ」と言われるリーダー村上と一時期は「男前と言えばもう黒沢しかいないでしょ」と言われてた「昭和の色男」系の顔立ちの黒沢。暴言を吐く村上と、空気を宥める中和剤的な黒沢。運動が苦手と公言する黒沢、対照的にサッカーに夢中だったという村上。挙げ出したらきりがない。きりがないんじゃなくて有りすぎる(爆)。なので、これ以上書くことは控えて、皆様の想像に任せようかと思う(苦笑)。

「サッカーをしていた」という村上の歌に対峙すると、どうしてもグラウンドで培っただろう男性から発せられる汗と土のもつ熱を捕らえてしまうのは、恐らく筆者だけのことだろうか。 とにかく、村上の歌からは見えない熱なり汗なり体温の高さなりが、歌から匂い立つようだと私は(勝手ながら)解釈している。 顔をくしゃつかせ、上を見上げ、目を細めて高音を振り絞る様は、ともすれば彼が敬愛してる過去の偉大なソウルシンガーたちを彷彿とさせるものが有る。それはあまりに「泥臭い」、その泥臭さが彼の歌を俺の歌にしているのかもしれない。泥臭いというよりも人間臭さが抜けない声だと思うのだ。それが男歌であったり女歌だったり性別の差異はあれども。
「参宮橋」などは人間が持ち得てる泥臭さの極みだと思うし、男の汗のスリルな一面はぢつは「something in my soul」でひょっこりと顔を覗かせているように思う。
「村上の声はいなたいと思う」
以前ゴスファンになりたての知合いの「二人の声の聞き分け」の問掛けに、こう答えたことがある。垢抜けてないわけじゃない、が、地味ではないし派手とも限らない。けれど掴める声。この人はスマートに生きてきたようで、彼はそんな器用に人生を渡りきっちゃいないと思う。その好例として「サッカーで高校進学しようとして出来なかった」ことというのはまだ顕著な例かもしれない。そして、浪人から早稲田進学も、そのひとつの例なのかもしれないが。そんな人生の苦味が顔を覗かせている。

対照的な印象を持っているのが黒沢だ。涼しい顔で伸びやかに発せられる高音、ピッと伸びた背筋と立ち姿に、初めてステージを観たときにただ驚いたことを覚えている(彼のラジオで話をするイメージから離れていると思ったからだろう)。 言うなれば、村上が年代にして60年代からのものを持ち得てるとしたならば、彼はデジタルな音を泳ぐ80年代以降の近い時代のもの。コンテンポラリーとスタイリッシュさ。カッコつけが基盤となるAOR<死語をも思い出させる声に、私は非常識ながらにこう呟いた。
「竹善さん??」
爽やかにエッチなことを歌う。という言葉はボーカル・佐藤竹善を称する時SLTファン殆どが多用してるのではなかろうかと思うが、その色合いをこの人に感じたのだ。
ゴスが「ウルフ」をシングルカットした時(多少なりと知名度を上げた)その成功の理由は、彼がサビに安岡が出してきたキツい歌詩「♪キスして、噛みついて、痛いぐらいがいいね、」を見事な爽やさで歌ってみせたからだと思う。村上が歌ったら歌った一癖もふた癖もあるまた別の味が有ったのかもしれないし、これを安岡が歌ってみても面白いかもしれないが(酒井の場合はPVを観る限り、明らかに問題外だと思えてしまうのが悲しいやら嬉しいやらで除外します)、ここで黒沢を出したことが私に「佐藤竹善的じゃなかろうか」コメントを呟かせる最大級の決定打になったといえる。

そう。黒沢の歌には村上が持つ汗臭さが村上に比べ、少ない。都会の子供が持つ近代的なもの、衛生的な匂いで打ち消されて、汗ははかとなく漂うだけだ。
スガシカオが「夜明けまえ」をやってエセ山下達郎にもならないであろう。明らかに、スガ節になってしまう。これが村上的ならば、黒沢は同じことをすると多分、えてしてパチモン山下達郎になってしまうのである。たぶん論で恐縮なのだが、声の持つ色合いだとか癖、匂いというのは、そういうことだと思う。村上の夏が「太陽光の直下」ならば、黒沢の夏は「クーラー直下」の夏だとも言える。
そう。その「汗臭さ」が少ないからこそ、だ。デビュー曲「Promise」を歌うたびにでうっとりする一般婦女子が続発する構図が出てくる。だからそれは決しておかしくないことだと思うのだが。

そんな対比をしながら考えようと思ったのには、それなりにきっかけを有している。ひとつが一枚目のアルバム「The Gospellers」収録の「Tonight」でのこと、女性DJ嬢からこういう質問が投げ掛けられたからだ。その模様を採録する。確かこんなカンジだ。
 

斎藤「この曲って。ふたりの歌い方が似てない?」
黒沢「ああ似てるって言われますね」
斎藤「火花がバチバチって散ることは?」
黒沢「火花って…、ねえ火花って散るの?(と村上に振る)」
村上「黒沢とは違う歌い方をしようとは思いますけど、火花は散りませんねー。出来るだけ黒沢と似ない様にはしますけど」
NACK5「ハート・ビート・ナイト」スペシャルーゴスペラーズは僕のものより抜粋
同級生。同じ位の音域。対になるだろうボーカル。似てなくもなかった高音の声に、彼らの周囲の方が過敏に反応したのかもしれない。対する彼らは口を揃えて「そおお??」と答える。でも、互いの声を意識してないというのは嘘なのかもしれない。「似ない様にする」と言う村上の言葉に、村上が黒沢と被ることを、実はどこかで察知したではないかとも、私なら邪推したりもする。
一方で黒沢のコメントからは、村上を意識しないで声を出したようにも思えないというのが垣間見える。でも、ふたりとも「似てないでしょ」と思ってる。だから「火花って散るの?」となるのである。
恐らく(なのだが)、私を含めた本人の周囲は、二人を同じ土俵に乗せたいと思うだろう。しかし、本人たちは「それが売りじゃ」と言うかのように意識していない。4曲目「Higher」終盤、黒沢と村上のユニゾンがあるが、そんなもん、今思えばまだ序の口♪だったと思う。
「Two-Way Street」「カレンダー」「待ちきれない」とシングルリリースが並ぶ中、年長組であろう黒沢か村上か、どちらかがシングルではメインを張る体制が続く。確かにボーカルのリードチェンジはあるのだが、一定しない。主体的に村上メインの進行だった「Two-Way Street」だったり、黒沢が中盤の美味しいところを全部持ち逃げた感の残ったりする「カレンダー」だったり(それはそれで私は好きなんだけどねえ)、村上メインで曲が進行させた「待ちきれない」だったりとボーカルを生かすにはどうしたらいいのか??というゴスペラーズ特有の試行錯誤が続くのだ。
 

3枚目のアルバム「MO' BEAT」の「ウルフ」からだろうか。
まさにここから、ふたりの声と声がぶつかり合うようになったと思うし、それを個性のひとつとして打ち出してきてるのではないだろうか。ここなんか特に、その極みだと思う。
 

傷に染み込む 涙を隠すように 満たされぬ衝動が また牙を剥く  月明かり差す その素肌に
「ウルフ」より一部抜粋


ここからだろう。ゴスペラーズのシングルのメインは完全に、この二人のボーカルに焦点を絞ってきた戦略が明確になった気がする。とはいえ他メンバーの持つボーカル力も目覚しく向上したのもあり「終わらない世界」では、今までなら黒沢に任せた美味しい箇所を酒井に任せたりしているし(サカイスト的にはおいしいのだが)、「Vol.」ではサビをベース以外の全員が取ることになる。となると、まだまだこの時期はボーカルチェンジの過渡期なのかもしれない。
そして、年長組のボーカルチェンジの理想のカタチと掛け合いを確立したのは、多分「靴は履いたまま」なのではないかと思う。特に「靴は履いたまま」の1番から2番に移る間奏のやりとりなどは、まだゴスファン歴が短い人でも「衣食住」ツアーで尚更目の当たりにしたことだろうし、ここをご覧になっている人でも「……。ああねえ(納得)」と多少思えることでもあるかもしれない。
ところが、これだけで終わることのない人たちがゴスペラーズだったりする(爆)。
シングル「熱帯夜」だ。
そのあまりのタイトルにゴスペラーズのSPEED好きを知るメンツは「SPEED?」と吐き、最後「PVはSPEEDの曲と一緒で5人の顔だけ映ってるんだよね?」の発言が出る始末。因みに「PVは」発言したのはスイマセン、隠すまでもなく私ですが、この曲で彼らの声は明らかに同じ土俵で対峙している。遂に向き合うことを認めたかのように。
「あたらしい世界」では交互、もしくは中盤での「Higher」状態のユニゾンがあるが、この曲での二人の声は完全に勝負の構図である。村上張りに吠える黒沢に思わず「やるなあ」と呟く私がいたが、反面それでも「ああいう黒沢さんのガナリ方って竹善さんの昔みたい♪」と言うところが、かわいくない私がより「かわいげがない」と言われる私たる所以だ(自爆)。
その彼らが対峙した時、私の口から出たのは「こりゃK-Ci&JOJOだあね」という言葉であった。となると、彼らの目指す先があっという間に判ってしまうんである。ボーカルグループのBACK STREET BOYSではなく、ゴスペラーズが狙う先がもしやまさか?のK-Ci&JOJO>和製ヘイリー兄弟を目指してるんじゃないのか。ということだ。となると、他の3人の存在価値をどこに見出すべきか。今度からはそれが命題になりそうな気がする。この二人に食い込むことは出来ると思う。頑張れ、後輩組。今回のツアーでは予想外の成長と健闘を見せているのは、掛け値なし贔屓目ナシで彼らだと思っているから。
 
 

そして「似た様にはならない」筈のボーカルにいちゃもんまで付けそうになったのが、実は五鍵ツアーにおける神奈川公演でのことだったりする。実はこの神奈川公演が、今回の文章を書き上げる最大の理由なんである。
この日、確かにエライ音が悪かった。思わず「音にうるさい」と評判の北山氏をも捕まえてPA卓のスタッフ様に「どうなってんですかあ(2000人台のホールであの音響では、これからステップアップすると考えると、真面目に大きなホールクラスは無理が生じるだろうから、今回のPA@神県は、サウンドチームはちょっと考えを改めた方が良いと思います)」と勢い言い放ちたいくらいの音の悪さに閉口した(が、初日の戸田はもっと酷かったらしい)。
更にそれに追い討ちをかけたのが、ハモリパートを減らして臨んだ「Tonight」にて、脱ぎの担当を担っていた村上を置いて、村上より先に脱いでしまう黒沢を眼前、目の当たりにしたことだといえる。
途端(20数列目とはいえ、黒沢の脱ぎポジション直線距離である)、私は目尻に涙を溜めて、その場にへなへなとしゃがみこんだのを、今でも覚えている(爆死)。嬉しいとかそういうんじゃなく、その行為に「痛い…」と思ったからというのが、余計痛い事実だが。

だからか、いつしか癖が出てきた黒沢の声と態度に思わず「黒沢カオルの最大の魅力はねー、竹善さん宜しく「爽やかにスケベ」なことなんだよおお。甘クドいのは安岡さんで十分でぇ、熱くたぎらせるのは村上さんで十分なんだから、ポンはポンのままで歌えば良いのーッ!!!!」と終演直後から叫んでしまったんである。
まったく。姉さんはそんなふうに成長すると思わなかったな<をい年下だよ私の方が(自分で自分に突っ込み)、となったから「そんじゃ、二人の声ってどうなんだろう」となり、この文章を書いてみた次第である。
 


back