010311-010320

my life goes on...,not forever.  it's dailyreports!!


■010311

前代未聞の新記録を 不意に降り注ぐスポットライトを  いつともしれないその瞬間は たった一度だけ訪れる

ここ2日は生々しかったです、…具体的なところでいろいろと(苦笑)

◇3月9日:献血
ほらね、具体的に生々しい上に血生臭い(大自爆)という言葉をもつけましょう。
約6年ぶり、大学2年生の6月以来という献血挑戦。事の発端は職場に献血カーが来たから、ただそれだけ。
今までは頑なに200ml献血を死守して来たんですが、今回は口車?に乗せられた恰好で見事400mlすっぱ抜かれる。
その後の仕事をしようものなら「指先に感覚がない」「腕が腕じゃない」状態に陥り、定時まで見事に苦しむ。直後から身体がだるくなったり、心臓界隈に軽く重りを乗せられた感じになって苦しいわで、なかなか普通じゃない状態に。そそくさ帰宅を決め込み、決行。
どうも看護婦さん曰く「あなたは血管が太い」のだそうだ。…、喜ばしいか疑問。ひとまず「そうなのか」と認識。また左目が痛みだし、PCに向き合うのも嫌になるほど。この日は日付の変わる前に就寝。
ただ献血カーの車内移動中(ちょうど採血の為に呼び出されて椅子に座ろうと車内縦断中)に流れっぱなしになっていたFM YOKOHAMAから
♪愛してる〜
という1年ほど前に初めて聴いた曲が流れて吹き出した事を付記します。同時に緊張感も抜けてしまって(苦笑)採血中なのに緊張感がどんどん失せる。失せた挙句途中から「眠たーい」と思う人ってそうそういない。腕からは血が採られていくのが解る中で「あー、眠るう」(爆)

◇3月10日[1]:川崎−御茶ノ水−横浜−新宿−川崎
移動距離。朝から眼科へ、てことでゴウトウ御茶ノ水。今週は左目が痛いので診察と処方箋を。何時も以上に込み合い、診察までの待ち時間は時間単位。午後2時にようやっと終わり、その足で向かった先が横浜の本社。ともあれ自社ですなぁ…(自爆)人事部長に出くわした時にえれぇ驚かれる。お化けか…?<ワシ。
1月の行動力強化研修の2回目が来週開催のため、その前にmeetingということで以前から召集がかけられていたもの。3時過ぎに到着し、4時にmeeting終了。
銀行の口座変更の書類を現場で書いて提出する(大爆笑)という荒業をしてから会社を後にし、今度は東急東横線普通電車で渋谷まで。そこから新宿。東京厚生年金会館にてKANさん。開演前にはどうにか間に合い、無事に楽しむ事が出来ました。その後帰宅したんで「−川崎」(笑)
これに一切の手当てがつかない事が悲しいところです(大自爆)

◇3月10日[2]:KAN@東京厚生年金会館
liveです、ナマモノだもの。
KANちゃんのcoreだったり、ある意味奇抜なentertamentというところを出すstageからすれば(過去のtourで披露したSteve椀田<Stevie Wonder(大爆笑)だったり、先だってのlive house tourの模様がpanfletにあったので読んでいると「John Lennonになりきっての「Woman」」だったりってのがある人なのよ、この人は)このtour自体がsimple過ぎるくらいsimple。albumを提げてというtourではないのか、新曲もある中で昔の曲も多くて「知ってる知ってる」というものも少なくなかった「best盤的内容」。時間は確かに短いものの、でも、その中に内容があったからOK。
これが今までのtour経験者だと「どこかに物足りない」だったり「service精神に欠けた箇所も」「もっとdanceするとか」という否定的な言葉も出るんでしょうけれど、私はそうじゃないんで。そういうのも楽しいし、そういうのも観たい。けれど、だからこそ逆に「歌を攻める」内容が好感触だったんですよ。この人は出し方が幅広い、そう思ったら「観たいね」となるじゃない。次回に期待が持てるじゃないの。そして伊達に10年以上やっちゃないな、というplus alphaも見えて。
むしろ、こんなにfullでpiano弾くの?と思ったほどで。それこそentertamentしちゃうとpianoを弾く曲が限られるのは明白だったんですが、そこを逆手に取った戦略が生きてなくもなく。確かに中堅だったり10年以上やっている人たちの動員が伸び悩んでいる現状は事実で、それの影をKANちゃんに感じないわけじゃない。だけど、それで音楽が弱くなる事ってないんだよね?
…マジつえぇわ、この人。彼の背中が見える場所で見ていたせいだろうか、そんなことを感じたのが序盤も序盤、3曲目。その曲だけで「参りました」となったのは何故だろう。

昨年12月のゴスペラーズ、8日も中野サンプラザ公演[初日]のMCで。「中野サンプラザといえば。むかしKANさんのconcertを観て、その時観たspotlight」を思い出して「スポットライトという言葉を歌詞に入れた曲も過去にございます」という珍しく製作秘話が出たMCもありましたね、ということで。single「ひとり」絶賛発売中?の「5人の侍」ゴスペラーズの曲を。
そんな今日は髪を切りました、まだ長いままといえば長いままですね(苦笑)結べる程度に髪は伸ばしている、といったところでしょうか。

(♪ゴスペラーズ「讃歌」)


■010317

泣き虫だし いい言葉も並べられない  笑顔も下手だし不器用だけど

半端ではないdryeyeと先週土曜日、医者に診断されて(別日日記参照)それもあって日頃から人口涙液[その中身は生理食塩水(爆)]をうっています。左目にあった痛みは治まりましたがcontact lensが使えない現実が痛い。てな今日このごろ。
そんな普段から目が乾くだの、もともと涙の分泌量がないだの、じゃないけど、私はどうも「「○○○[※○の中には曲を自主選択しtitleをて入れよ]」を聴いて泣きました」という書込みにどうも苦手意識があって、なのに呼び寄せられたかのように最近そこかしこで対峙する。そのたび「えー!?」と思うわけです。
確かにいるんだろうな、とは思う。曲を聴いて泣く人が、というのは私もわからなくもない。私の場合は映像とか、一瞬のshotというのにやられるcaseが殆どで。映画とかdocumentとかsports中継(ex.箱根駅伝で泣く)とか、stageで歌っている人の影が重なる様でグッと来たとか(苦笑)申し訳ないけれど、私は基本軸泣き虫の部類です。でもCDの曲だけで泣いた経験が殆どッ(コンマ数秒のbreak)、てくらいないんですよ。
だからかもしれない。「涙が出ました」という一行に妙に疑ってかかる。「本当?」と思う。ここまで多いと正直「ちょい待てやい」と思えてならんわー、って。書いている方はそうは思わないのも解るから、察するだけに私も黙るんだけど、読み手がこう読んでいて「え?」と一度冷静に構える。「泣く」という事がそういう受け取られ方もされなくもない、って想像できないのかな?とも思う。
そんな人だからかな、「音楽で泣く」という強迫観念に似たまでも見えかけた時に私は「正直怖ぇーよ…」と呟いていたですよ。「遂に瞳どころか心まで乾いているんかい」と思ったほど。音楽に「泣き」だの「癒し」だのいうphaseをあてる事がここ数年多いけれど、音楽ってそんな甘くて生半可なものかいな(苦笑)身体も神経も心を削ってるから、だから産み出されたものに感動するんだと思うぞ。けど、それでも泣かないんだよなぁ…

自分の中で今も「泣く」という行為は本当の最終兵器だと思う。っても「泣き落とし」じゃないけれど(苦笑)
それにしても随分泣き続ける毎日とかがなくなって久しいと思った。
5年ほど前は散々泣いた。学園祭staffの局長の先輩と毎日battle状態で。何かにつけ、ある種一方的にmachine gunブッ放されてるような日々で。それに泣きながら食らいついて反抗しつつ立ち向かったから「信用しています」と言われたのだろうけど、それでも受けた傷の重さを考えると、私にとって局長は局長でしかなくて、年下の私が出すものなんか関係なかったんだと思う。この人の下にいる限り私の敵だ。とは思った。
その頃には自分のいる場所が求められている場所じゃない事も思っていて。だからいいかげん私は外に出たくて。だから余計に追い詰められて、結果的に話をするうちに泣き出すくらいの状況になっていて。その時に数年分の労力で泣き倒したからかもしれない。
でもさ、本当に小さい頃は泣いてた。理解されないと泣く、悔しいと泣く、幼すぎるとあるのが思い通りに行かなくて泣く、更に父にたてつくたびに見苦しいほど泣いて泣いて。大学行く時も泣きながら頭を下げに行った(回想して自爆)。まぁ泣いて物事を悟ったところもあって。だから簡単に「泣く」とは思えないんだよなぁ、と思う。
泣いてしまうという事は、つまりはいちばん弱いところを露呈することになる、そう思う。だから音に弱くて音で泣く人もいるのだろうと思うし、私のようにstoryがあるかなしかの映像というものに頭をヤラれるcaseがあるというのもあるのだと思う。それだけに簡単に「泣く」「涙が出る」て言葉が妙に此方を不安にさせて、怖い。

そういう書込みの話を、ある方としていて。お互いに「CDで泣くのか、ないなあ、それは。すげぇなあ」と言ってて。その途中「liveなら泣く事、あるんだけど」
そうそうCDではダメでもliveはそうと限らない。liveでも相当泣かないけど「もう一度聴いたらホント泣いてるかも」というのはあるんだなぁ、と思ったんですね。
最近だと「去年12月3日名古屋センチュリーホールも3階最後列(!!)で聴いた「永遠に」」という極度の限定条件付きがあるかなぁ…(自爆)とか。

それまで「永遠に」というのは苦手意識のあった曲で。それはvocal groupがballadをやったら悪いけど売れるじゃないのさ?と苦く思っていたから、更に「歌えてると思えない」と初めて聴いた焼津公演(2000年8月18日)時に思ってしまったから性質が悪い(PAとchoursとのmixingのbalanceが取れてなかったように聴こえてしょうがなかった。微妙にkeyが狂うというのか)。その後にCDを聴いて「CDの方がliveより良いのはどうなの?(起爆)」と首をかしげている有様で。これじゃ好きにならないだろうなぁ、と。だって最新形の彼らに良さを感じるものの、引っ掛かりを残してて。その何割か残して納得行かないままというのは「好きでも辛い」ところだから。
だからその日まで、結局のところ以前から続いていた「どことなく不信感」「手放しに称賛できない」状態は抜けつつあるものの燻っているわけで、彼らの今後というのにあまり楽観視しなかったし、実のところ「liveの時の彼ら、楽しそうでした?」と周囲に謎に問い掛けてしまったほどで。どうも観るのに辛い状況は、その名古屋まで続いていたんですね(で、名古屋で大丈夫かと思ったら東京公演初日である意味コケた(苦笑)客席の後ろ半分と前半分で反応が違い過ぎた。後ろ半分が凍り付いて溶けないまま終了していったと思う。もっと言えば、これからはこういう状況の方が多いと思うだけに不安を残した)。
当然CDにもならなければ、音源を放送するとかいうのもないし(某JFN系列であったらしいけど聴けないので没。曲被りのtalk入りなら要らないよッと激ギレした、実は)映像なんてもってのほかだろうけど、あの時の8、9分余りというのは記憶に鮮明に残るだけ残ってて、今はそれを記憶を反芻させることで「再生させる」事しか出来ないわけで。だから、余計聴きたくなるんですよね。その時に感じたもの、掴んだものって確かにあって、それをめちゃくちゃ覚えているから記憶の再生が出来る。それは「良かった」「この曲が聴けた」というだけじゃない。そこで終わらないもの。

あの日「後ろの後ろまでっ。僕らの声が届くように」とMCで切り出されて。実はそれを聞いた直後、私は鼻で笑ってしまった。高みの見物だったからだろうか。その「後ろの後ろ」に自分がいたからだろうか。
ただ、投げかけられた意思表示に此方が毒づいたのを覚えている。ねえ、出来るの?特にこの横並びの連中、納得させるのマジで大変だよ?
「ヤダね」
この日「お手並み拝見」と斜に構えて観ているメンツは彼らを前で観る事も、「なりきりゴスペラーズ」で何らかの形(ex.eye contact、指さし)で狙われた事も、北山氏の音叉の対象になった事も(ひとりは音叉get済み、ひとりは完璧対象になった)そしてliveでの彼らを観た数も各自が通算20以上数えてて(大爆笑)。このtour[ゴスペラーズ坂ツアー2000]自体ひとり最低2本は参加済だったわけで場慣れしている。点数付けも(普段前にいても)辛いメンツが3階で声を潜めて、それでも言葉にしてしまう。
「後ろの後ろ?」
「後ろの後ろがここだ。と」
「うわッ。届くのか(汗)」

此方のそんな思惑を越えて届いたのが本編最後に歌われた「永遠に」でだった。届いてる、と思った時に目の前に広がったもの、見えたもの、感じたもの。各自、それぞれ言葉の仕方は違う。でも、こう言葉にしたところから、今のてんわやんわの状態を(今となれば)怖いくらい予知していたのかもしれない。私はこう言った。それは捨て鉢ではなく、本当にただそれだけという感じで。

「悔しいけど、あんなに歌えるなら売れても良いよ。今日の「永遠に」なら。もう売れて良い」

横並び、三者三様に受け止めたものとして出す言葉も行動も異なる。
直後にsimpleに出された「今日の「永遠に」が今までの中で一番好きなんだけど」というcommentだったり、思わず場内の何処よりも早くしてしまった拍手だったり、思わず零した涙を拭う仕草だったり、その形態は様々にある。
けれど、3階最後列でようやっと掴まえる事が出来たもの。
tourも終盤で「後ろの後ろまで」で、その通りに後ろの後ろにいて、だから余計に「え?」と突っかかって、それで見出せたもの。
後ろの後ろまでいるお客を向こうに回して歌う事の凄さは想像に難くない。とてつもなくenergyの要る事だろう。ただ、それが出来るか出来ないかで、大きく「これから」が違ってくる。それが出来た事。出来たから出た言葉が「この曲で売れても良い」という事。
こんなに技術面も上げてる、その上で届く歌になった事。そして、それだけ歌えるようになった事実。
前の席にいるのと同じ、いやそれ以上距離のない心の近さを感じた事。遠いはずの場所で「音」だけで満足できた事。曲を「あなた」に歌っている事。
releaseされて数ヶ月も軽く経つ。季節は夏の終わりから冬の初旬に変わっていた。初めて、この曲に納得した。OKと言えた。また新たな成長をも感じた。そして次への確かな予感が見えたのかもしれない。「あなたに歌う」事を掲げて回ったtourだっただけに、私に届いたというのが大きいのだろう。

しかし、それくらい「永遠に」という曲を疑問符をつけて聴いていたってことだ。
fanの中には聴いた時に懐疑的になった人もいた。そういうこと。だから「永遠に」で泣けるなんて、という言葉が出てもおかしくはないと思った。それに対して、そこまでの事情を知らないあたりから反論が出る事も知っていた。むしろ「そうだろう」と思ってもいた。どっちも正しくて、どっちも間違っていないと思う。
もしかしたら、私の事を「あなたは素直じゃない」と言う人もいるかもしれない。正直な話、聴いてて私はそう思ったんだもの。素直に聴いて「良く出来た曲だ」と思った。そこでstopしたという事。肝心なのはその先にあるもの。出すのは構わない。出した後にどう思われるか、受け止められるか、受け入れられるか。それは恐らく、点の辛い私はsingle「あたらしい世界」が根っこにあったからだと思う。
ねえ、その曲を自分たちのものに消化しきっているの?と思った。確かに出来は良いよ?新境地かもしれないよ?支持する人もいると思うよ?ただね、CDのsound makeは良いとしても、それ生で聴かせてナンボでしょ?(爆)それが出来るの?

その「生で聴く」状態で、私は名古屋までの過去3回(かろうじて沼津はヨシか?)8月の焼津、浜松、沼津と進めた静岡seriesと、「永遠に」を聴いてもどこか必ず「doubt」を出し続けていた。
確かに評価は尻上がりにあがるものの、来るものがあるにしても、それで納得しているかというとそうじゃなかった。最後の最後、引っ掛かりをずっと覚えていた事が「今回のtour、楽しそうですか?彼ら」であったり、或いはtour前から口にしていた「客席の後ろも後ろまで客は客なんですよね」という言葉なのだと思う。
その「これから」だったり「疑問への答え」がclearに見えた時がたまたま名古屋公演での、3階最後列で聴いた「永遠に」だっただけだ。言葉通り「後ろの後ろまで届く」をやってしまった事。
此方が「Yeah!」「I've got it!!」という幸福を噛みしめた時、自分の口から出た言葉に今になって驚愕する。「売れても良い」、その通りに現実、売れている。
今年に入ってからの急激な盛り上がり方を、去年の12月時点で見透かしているようで。それが前述の「売れても良いよ」だったから、振り返って、今となって「凄いわ…、あの時って凄かった。お金で幾ら積んでも足りないものがあった」と思う。

「あの日には、結局、「予感」をお持ち帰り出来たんだわ。これから、ものすごい事になるっていう、不思議な予感。」

あの日ご一緒したひとりからのmailにあった、その一行にズシリと来る。
そう、予感を貰ったの。彼らは大丈夫なのかもしれない、そんな確信と、彼らの歌が届く、もっと広がって届く。この歌なら大丈夫という予感。
もしかしたら、あの人たちはもう惑わされないで歩いていける。私は今まで通り、それを遠くで感じれば良い。
けれどそれも少し迷いつつあった時期に、運良くTV出演が頻発して。その中での彼らが落ち着いていた事に安堵した、そうだろうなとは思う。もう何年もやってきた事だもの、急にspotlightがあたっただけ。simpleなまでに、そう思ったのかもしれない。その妙な安堵の裏付けは「去年の名古屋」に、私の場合はあるのだと思う。逆に周囲が騒がしいだけ、私は「7年かかってやっと一人前にartistとして見てもらえるようになったんだね」と苦笑いを洩らす。
その前だって彼らはそうだったんだもの。歳を取る、服装が変わる、音楽のstyleは時の流れのままに変わる。けれど、その根幹は変わってないんだよ、恐らく何も。

時が止まるまで

名古屋公演の12月3日、その歌詞を聴いた時、初めて秒針がゆっくりと音を刻んでカチリと音を立てて止まるのを感じた。
時間は待ってくれない。そう歌った歌があったっけ。時間は待ってくれないから、止まらないから、流れてしまうから、流されてしまうから、だから、その時に刻んだ一秒を今の私は惜しまずにいられない。だから、今も記憶を時折再生させては思い出してみる。こういう色褪せたくない記憶を繋いで、繋いで、それでどうにか好きでいる事を続けられてる。

「永遠に」という曲で彼らを好きになった人や最近になって知った人ほど、私のような事をきっと思わないと思う。その予感を感じる時間があるかといえば、そうでもないだろうし。それに以前から彼らの音楽を聴いていた過去がないのがweak pointだとしても、上級者がそれを攻めてもしょうがない事だし。だってさ、timingがあわなかっただけだもの。私だって、その時期に知ったかもしれないんだし。
ただ、さ。もし「昔のfanの人が何故そう言い出すのか」と思った時に「こう思っている人もいたんだ」ということ。なんだよね(苦笑)ここまで書いたのは。
観て来た数、聴いて来た時間、そしてその分だけ色々感じて考えて、受けとめて、というのをrealtimeでしてきているってこと。その数だけ悩んだり、違和感を覚えたり、どうして?と思ったり、している筈なのね。それに上手に気付いて欲しかったりする。
受けとめる事を始めたばかりの人と何年も繰り返している人とで、ひとつの曲に向かう考え方も違ってくるって事に何人が気付けて、どれだけ言葉に出来るのだろう?

(♪aiko「ナキ・ムシ」)