2002/07/19 「アニメファンってお金がかかりますか?」

 アニメを見ること自体には、どれくらいお金がかかるものでしょうか。

 私は、アニメを見ること自体にはほとんどお金をかけていません。録っているビデオテープは重ね録りして、基本的に見たら消していますし、グッズやDVDなんかもほとんど買いません。ついでにいうと原作漫画とかもめったに読まないので、漫画代すらほとんどかからないという徹底ぶり。

 アニメにかけているお金は、いくら重ね録りしているとはいえ痛んだり、たまに保存したくなるビデオテープを半年に1度ぐらいのペースで10本パックを買う、それからデフォルトで保存に回しているテープ(標準録り)が月に2本ずつ、8mmデッキ用のテープを年に1度ぐらい、そして毎月1,2誌買うアニメ雑誌ぐらいでしょうか。

 まとめると、下表のようになります。とは言っても、多少はこれ以上にアニメに対して使うので「最低限」と表記しておきました。

表1:アニメを見るのにかけているお金(最低限)
ブツ代金月単価
重ね録りテープ(10本)約1200円(半年)200円
保存録りテープ(10本)約1600円(5ヶ月)320円
8mm用テープ(10本)約4500円(1年)370円
アニメ誌約1000円(ひと月)1000円
月合計1890円
年間合計約、22000円

 ひと月2000円弱という結果が出ました。実際はこれにNHKや、CATVの受信料、録画機器等のメンテ代などが含まれるのでしょうが、純粋に「アニメに」かかっているお金ではない(しかも自分じゃ払ってない)ので省いて考えます。ひと月2000円弱というと、昨今の電話代より安いです、プロバイダ料金より安いです。こんな安く済む趣味というのも、今どき珍しいと思います。つまり、“アニメを見るだけ”と言う趣味は、基本的にほとんどお金をかけずにできます。ここのところよく覚えておいて下さい。

 でも、事実として、アニメはビジネスとして成り立っています。ということはつまり、アニメを見た側から制作側へ、お金が流れるシステムがあるということです。表1のお金のかけ方では、ビデオテープメーカーにお金が入っても、アニメ業者にはどう考えてもほとんど入りません。

 その一方で、アニメファンというのは、この業界の金づるとして認識されています。アニメファンを「アニメを好んで見る人」とするなら、それが見るだけであれば上記の通りお金はほとんどかからないはずです。

 つまり、一般的に「アニメファン」というのは、アニメを見るだけの奴等ではないと認識されているわけです。実際、アニメがビジネスとして成り立っている以上、“認識されている”というより、見るだけで済んでいない方がより存在として一般的であるといえます。

 ここで注釈が必要なことに気づきました。一般的なテレビ番組というのは、スポンサーの提供料で成り立っています。番組はスポンサー様から頂いたお金で番組を作り、その番組が視聴率が取れて、スポンサー様の宣伝になれば、きちんとループができ、視聴者は見るだけで問題なく番組が成立します。もっともいくらかの視聴者がその番組中の宣伝のものに乗らないと、スポンサーの意味がなくなっちゃうので困りますけどね。つまり、番組関連の何かで儲ける必要は特にないということです。
 アニメ番組の場合も、もちろん提供料は入りますが、それだけでアニメ1本作れるほど、アニメ制作は安価ではありません。それ以外のどこからかお金を徴収しないと、普通に赤字になります。「それ以外のどこから」というのは基本的には一般視聴者のことになりますね。

 つまり一般にいうアニメファンは、アニメ業界に対してお金を使っている存在なんです。実際のところ、使っているからこそ作品の対象層として認識されているんです。ハメたら、いやちょっと触手がかするぐらいでも、作品の関連商品を買ってくれる層として。

 かといって、自分がアニメファンだということを自負するためだけに、アニメにお金を使う必要はありません。「アニメファンはアニメにお金を使うもの」という認識があるなら改める必要があります。繰り返しになりますが、アニメを見るだけならほとんどお金はかかりません。買うなら、それが本当に自分に必要なものか考えて、真に必要なものだけを買っていただきたいと思います。「とりあえず買う」は、作品にも、自分にも失礼だと思います。

 で、私にとって「アニメ」という趣味は、「お金がほとんどかからない」というのも重要な好きでいられる要素ですので、事実アニメにはほとんどお金をかけていないつもりです。制作側から見れば使えない奴かも知れませんが、それでも存在できてしまうシステムがある以上、仕方のないことです。

 でもまぁ、時間だけ使って、金使ってない身としては、あまり人が見られるような場では大きな事は言わないことにしてますわね。もしかして騙されてお金使ってくれるかも知れない人に対して、マイナス情報をわざわざ入れることもないでしょう。彼らがお金を使ってくれるからアニメを見ることができているわけですからね。そういう意味でも「つまらない」とか「見てる奴の気が知れない」とか「誰だこんなのに金出したの」とかはいいたくないですね。

 アニメ好きで、しかもお金を使わずにいるためには、ハマらないことが一番有効です。ハマったら欲しくなる関連商品、ハマっていなければ欲しくなりません。真にハマっていなければ、商品を見ても我慢できます。

 私はアニメにお金をかけたくないので、アニメを見ている時は極力ハマらないように心がけています。大ハマリしないように注意しています。TV放送以上のことは気にしないように感情をセーブします。

 かといって、ハマるハマらないというのは感情をセーブして完全にコントロールできるような代物ではないので、時にこの感情ブロックを破ってハメられてしまうことがあります。

 この一連の「ハマる/ハマらない」がアニメ視聴の「戦い」ですが、その話をすると脱線してしまうので今回はしません。で、ハマってしまった場合、それは「出逢い」ですので、その作品に出逢えたことを喜んで、関連商品に手を出すことになります。まぁ実際問題、もう何年もそんな「出逢い」はしていませんけどね。むしろ「しないで済んでる」というべきか。

 これらをまとめると、一般的にアニメファンといわれる人たちは、深く考えずハマっているか、ハマってもいないくせに、買いまくっているということになります。……私としては理解に苦しみます。それとも、ハマるまで行った人が割合的に少なくても、アニメを見た人自体の総数が多いので、その少ない割合でも十分多量であるということになるのかしら。アニメファン人口ってそんなに多いのかしらね。

 まぁ、要は貧乏人のひがみなんですけど(爆)、少しは自分に本当に必要なものか考えて買ってほしいところです。2度見ないどころか封すら開けていないDVD、数回聴いたら棚の肥やしになるCD、押入の奥に行ってしまった造形物……それは本当に必要なものだったのですか?


◆付録◆

 最低限は出したけど、実際の年間アニメ関連にかけているお金はどれぐらいかを表2にまとめてみる。

表2:アニメ関連物にかけているお金(実際)
ブツ代金(1回分)年間
重ね録りテープ(10本)約1200円(半年)2400円
保存録りテープ(10本)約1600円(5ヶ月)3840円
8mm用テープ(10本)約4500円(1年)4500円
アニメ誌約1000円(ひと月)12000円
アニメ業界本1000円〜6000円
映画(年6本ぐらい)1500円〜10000円
夏コミ費用(同人誌等)約30000円30000円
冬コミ費用(同人誌等)約20000円20000円
ワンフェス費用約10000円10000円
マンガ雑誌約420円(ひと月)5040円
コミック約420円(月一ぐらい)5040円
ネタ買い物費用100円〜10000円
年間合計118820円
月間費用約10000円

 趣味としてはそんなに高い金使ってないとは思うが、結構多い感じ。月1万かー。とはいっても業界に還元してるのって、映画代と、アニメ誌代と、ネタ買い物費用(あと一応ワンフェスも入る、コミケは入らない)だけなんだよなー。ん〜、いいんだろうかこれで。ついでにいうとコミケ&ワンフェス抜くと月5000円ぐらいになるね。これなら金かけてない感が強いですなぁ。

 ちなみにママレにはまったときは、ママレ関連だけで15万ほど使ったらしい(いま計算した)。もっともLDBOXが正味12万ほどしてるだけなんですけどね。…あのときはFFランド全巻より高いことにちょっと凹んだなー。

 あーFFAランド出たんだよな〜。実はコミックがこれで月4冊追加だったりしますわ。ついでにHDDレコーダー購入したのでテープ代に変動が生まれそう…まだ来てない現状の内に公開しとこ…。


◆後記◆

 この論を書く前に書かなければならないことがあったことに、書いている途中で気づきました。アニメファンを使わなくても完結する、そう、グッズ宣伝系の番組のことです。というか、一番古い手法なのに、無視して論を進めているのは非常にまずいだろー、とは思いつつそのまま書いちまいました。その辺も書きたいネタのひとつなので、そのうち書けたらいいですけどね。

 あと、アニメ視聴の「戦い」についても、書くべきかしらねぇ。でもこの「戦い」はあまり一般的じゃないと思うので、書いても仕方ないような気が。

( 記 : 02/02/08 修正 : 02/07/19 )


2002/02/06 「復活…?」

 どうもあにめ感想にっきの方に書くと流れがよくないので、久しぶりに日記もどきの方に書くことにする。ついでに色とかをあにめ感想にっきカラーにしてみました。しばらくしたら感想にっきの方から長文引っ張ってここに再録しようかと思っています。

 …と、ここまで書いたら内容を下に続けるとまた流れがよくないことに気づく。書こうと思ってた内容はこの次(上)の項目にしようと思いますわ。せっかくなので今回の日記ではこの日記コンテンツの趣旨など書いてみようかしらね。というか、このコンテンツがどんな意図を持って始めたものだったか私自身が忘れつつあるから、まとめておかないとよくわからなくなりそうだから…。

 ここの日記は表紙に書いてあるとおり、いわゆる日記に…なる予定でした。でも、毎日ネタがあるわけもなく、書きたい、伝えたいことがそんなにあるわけもなく、時間も余っているわけでもなかったし、書きたいことがあっても、長文になると、行き当たりばったり文ではなかなかまとめられず、あまり更新しませんでした。さらに、毎日ネタには事欠かない「あにめ感想にっき」を始めてからは、まったく更新がないままになりました。

 実際、ここに書こうと思っていたネタも、わかる人にだけわかるように小さくまとめて「ひとこと」コーナーに書いたことも多々あります。ひとこと短文でも、それなりに伝わっていると思っていたんですけど、なかなかそうは行ってなかったようで、ここ最近「あにめ感想にっき」でも、その辺の内容を長文にしてくどくど書いてみたら、それなりに反響がありました。

 てなわけで、前の日記の冒頭に書いてあるように“誰しもが思っていつつも皆知ってるから言わなくていいことをつらつら”と、また書いていこうかと思います。でも、しばらく「あにめ感想にっき」をやってきて、自分が「誰しも思っている」と思っていたことが実はそんなにそうでもなく、さらに自分のアニメ視聴形態が結構珍しいものだと気づいたので、自分の視点から何か書くのがそんなに意味のないことではないんじゃないかとちょっぴり思えるようになりました。

 そんな感じで、ここでは「あにめ感想にっき」とはひと味違った内容と文章量でつらつらぐだぐだ書いていけたらいいな、と思っています。ネタはそれなりにあるんですよ。


1999/03/04 「アニメを楽しむこととアニラジを聴くこと」

 あまりに長いことタイトルだけ出して書いてなかったから、内容的に古くなったんだろうな…、もう1年以上もアニラジ聞いてないし。

 「アニラジ」というのは俗に言うアニメ声優の方がやっているラジオ番組のこと。内容はリスナー(ラジオを聴いている人)からのハガキを元にしたトークとか、あとラジオドラマとか。最近はよく知らないけど、むかし聞きまくっていたときは聞ける範囲で週20時間ぐらい放送してました、実際のTVアニメの時間より多いというのがなんか本末転倒…。

 ラジオの内容についてはとやかく言いませんが、こういうラジオを聴きながら、TVアニメをTVアニメ単独で見たときと同じように見るのが可能なのかとちょっと考えてみたい。アニメを楽しむことに観点を置いたとき、アニラジを聞いている方がいいのかどうか。

その1「ラジオドラマはTVアニメ化の際に予習してあった方がいいのか」

 番組内でラジオドラマを放送することは結構多い、そしてそこで放送した作品が後々TVアニメやOVAになることも少なくない。ちょっと考えればラジオドラマはTVの元となるものだし、聞いていた方がアニメを見る際に深みが出るし、小ネタなんかも分かり易くなるかも知れないと思いがちだけど、そう短絡的にはいかないみたい。
 後にアニメになった作品のラジオドラマは、本当にそのアニメとリンクしているのか、アニメはラジオドラマの延長上にあるのかと言うことを考えてみると、制作の流れはあるとしても作品として繋がっているとは言い難いと思う。アニメ、特にTVアニメはそれ単独で見る人が大多数ということを前提に作られている気がする。“TV”というメディアはマンガ雑誌やラジオより広く伝えられるものとして認識されているから、マンガやラジオからの古いファンにアプローチするより、新たなファンを獲得する意味を持たせる方が重要視されて当然だ。逆にそこからマンガやラジオにファンを持ってくる事を考えるだろう。
 だからTVアニメはラジオドラマの予習を必要としない、というか聞いていないことを前提に作られる。TVアニメにとってラジオドラマはより深くはまった人に対するアイテム、もしくはアニメ化していいかのものさしでしかない。もちろんラジオドラマはラジオドラマとして十分に楽しめるものだが、それのアニメ化を期待するのなら聞かない方がいいと思う。聞くならアニメ放送後にしておくと両方楽しめると思う。同様に原作マンガや小説についてもそう思っている私だが、あんまりいうと怒られそうだ。
 でも「アニメ化した際に楽しみたい」じゃなくて「どうしてもアニメ化して欲しい」場合は積極的にファン活動した方がアニメ化されやすいでしょう、ラジオドラマを聞き、原作本を買い、CD化したものは当然買い、さらに感想とか送ったりした方がアニメ化しやすいのは言うまでもないと言うことね。

その2「“声優”個人を知ることとアニメを楽しむこと」

 アニラジと言ったって番組中ずっとラジオドラマを流していたり、アニソンを流しているわけではない。言ってみればそっちはおまけで、パーソナリティつまりその番組の声優さんのトークがメインの番組がほとんどだ。
 ここで“アニメ好き(声優好きではない)”の人がそのトークに期待することは何だろうか? 声優の私生活に興味がないとは言わないが、そこで期待するのは「声優」であることによって知りうる“アニメ界の裏表”ではないだろうか。せっかくアニメファンなのだからアニラジをアニラジ単独で楽しもうとは思ず、リンクさせて楽しみたいはず。
 とは言ってもそういう構成をしている番組は稀少だ。ついでにここで取り上げたいのはそういう番組じゃないし、そういう情報系番組は聞いてても大丈夫…かな? 多少知りたくもない情報もあるけど。
 と言うわけで普通のアニラジは声優系ラジオなわけで、トークはアニメの情報と言うより声優個人の情報までで、あとは長いこと生きた人なら誰でも言えそうなこととか(爆):つまり「声優」であるステータスは関係ないということね。
 声優関連のラジオを聴くと言うことは直接「“声優”という職業があることを知る」と言うことに繋がる。が、これがアニメを見るときに必ずマイナス要因かと言えばそうでもない、知っているからこそ楽しめる場合と、知らないからこそ楽しめる場合とがある、まあ知らないでいられるのなら知らないでいた方がいいとは思うが…。でも声優系ラジオで真に怖いのはそんなところじゃない。一番恐ろしいこと、それはラジオを聴くことによって「声優の声を憶えてしまうこと」だ。
 アニメにおいて声優の声はその声優そのものの声じゃなくてキャラボイス、つまりそのキャラクターのために作られた声である(一部何も変えてない人もいるが…(爆))。キャラボイスしか知らなければ何と何のキャラクターは同じ声で、声優は誰々であると言うことがわかっても、それはなかなか直感で繋がるもんじゃない。でもアニラジにおけるパーソナリティとしての声優さんの声はキャラボイスではない、声優さんそのものの声である、すべての持ちキャラの総元締め、その人のキャラクターは全てその声に繋がるのである。元を知っていると、その人がどういう声の出し方をすればあのキャラクターになるのかというのが多少見えてきてしまう。そうなってしまったらそのキャラクターの声はもうキャラクターとしての声じゃない、声優がそのキャラクターのために出している声として聞こえてくる、今度は知識じゃなく実感として。
 キャラをキャラとして感じられなくなったら(もちろんそんなことを感じさせない声優さんもいるが)、少なくともアニメを素直に、まっすぐに見ることは出来ないだろう。確かに「声優」の知識を得ることによって新たな楽しみ方の道ができたのかも知れない、でもアニメはそんな知識がないと楽しめないモノなのか?それは否である。そんなものを知らなくてもアニメは十二分に楽しめる、はず…(弱い)、それよりそれを知ってしまうことでそれまでのアニメの楽しみ方を失うことの方がよっぽど大きいのではないだろうか。

 アニラジを聞くのは楽しいことだし、声優ファンももちろんいいだろう。アニメをただの「声優さんの仕事場」と思いつつ見るのも自由だ。そもそも100人の人がアニメを見ていれば100通りの見方があっていいと思う。でもそれが本当にそうありたい自分とアニメとの接し方なのかちょっと考えてもいいんじゃないかな。


1998/10/08 「ファンシーララと魔法とアニメ」

 もしかしてこのネタ掲示板に書いたっけ? まあいっか。このネタは「ちび猫リル」の回だけ見ればわかると思うのでそのように。

 この回には「魔法ってなんだろう?」って話が隠れているような気がした。(隠れてないかも)

 変身が出来て、欲しい物が出せて、生き物まで生み出すことができるララの魔法…それはまるで万能なように見えた。「魔法があれば何にでもなれる、何でも叶う」「魔法があれば他に何もいらない…。」そんなことさえも思ってしまいそうな力であると。

 でもララの魔法は「ぶかぶか〜」の言葉で全てが消えてしまう、たとえそれがどんなに想いを込めたちび猫リルであっても…。

 このことにはどんな意味があるのだろうか?

 みほにとって世の中は「みほとしての世界」と「ララとしての世界」の二つがあると思う。ララとしての世界とみほとしての世界はどんな関係なんだろうか?

 いくら魔法を使ってララの世界に執着したとしても、リアルなみほの世界はなくなることはない、それどころかララの世界のウエイトを上げることによって大切にしなければならないみほの世界が乱れていく…。

 決して逃れることの出来ないみほの世界を大切にするためにはララとしての世界とのバランスを考えなければならない、ララとして生きていくことが出来ない以上魔法によるララの世界はみほの世界の補佐的存在、みほの世界に、みほの心に潤いをもたせるモノでなければならないと感じた。

 魔法は魔法であって魔法でしかない、リアルなものとは違う…そんなことを言われた気がした。

 ここでふと「アニメ〜な生活」を考えてみた。アニメ世界って何だろう?

 「アニメ世界であれば何にでもなれる、何でも叶う」「アニメがあれば他に何もいらない…」魔法の力にはかなわないまでも、アニメの世界にもそう思ってしまえるような力(ここでは「魔力」と要ってもいいかも知れない)があると思う。つまり上記のみほの世界=現実世界 ララの世界=アニメ世界 とおくとかなり当てはまる。

 言われてみれば確かにそう言うところもある、アニメにいくら入れ込んだからと言ってアニメはアニメでしかない、アニメの中でどんな変化があっても、それが現実に活かされなければ何もないのと同じ。見ている側が現実世界の存在である以上、アニメ世界で生きることは出来ない。現実世界に潤いをもたらす以上のことを許されていないアニメに自分の全てを捧げてしまうというのは全くもって支離滅裂…

 …か なかなかつらいことを言われてしまった。

 現実を忘れてしまうくらい面白いものを作っておいてっ…


1998/03/15 「最近のアニメ界」

 あんまり感想のもらえない下の18禁ページはちょっと無視しつつ、今日もまた誰しもが思っていつつも皆知ってるから言わなくていいことをつらつら…。

 最近またアニメの本数が増えている。4月から始まるアニメの本数なんていったらもう…大変。増えたのは人気が上がったのか儲かるようになったからかデジタル導入で人気に応えられるようになったからなのか知らないが、とにかく増えた。全部見るのはかなり大変である。

 これは「『アニメ』を『アニメ』としてくくるのは厳しい状態」になったんだと思う。映画に例えれば、いくら映画が好きだからと言って端から端まで見ている人は滅多にいないと思う、自分の好きなジャンルとか、好きな監督や俳優、話題性とかで自分の見るものを決めているんだと思う。じゃあアニメは違ったのかと言われれば「違った」と答えられる。端から端まで見ていた人は結構いたし、見ていないところがある人も「知らなかった」とか「時間がない&あわない」とかが理由の大きな所だったと思う、「見たくない」じゃなくて「見られない」。周りもそういう反応を取って、私もアニメ好きが知られていたときは「アンパンマン見た?」とか聞かれたこともある。俗に言う「アニメオタク」のくくり方がここにあると思う。

 これからは「オタク」とくくられる人も決して全部見ていたり、全ての状況を知っている何てことはないだろう。取捨選択しなければ生活に支障をきたすからね。

 この「アニメが増えた」状況は「アニメが(認められたか認められてないかは別問題として)一つの表現方法になった」と言えるだろう。ドラマや映画と一緒だ。アニメが一部のマニアや子供だけのものじゃないことが分かれば、今後普通のスポンサーが付くことも十分予想がつく。

 「いいことじゃないか」と思う人も多いと思うが、いいことの裏には悪いこともあるのは当然である。アニメファンの細分化だ。

 一昔前なら「アニメ」でくくればオフ会ができたであろう、しかし今それでくくれば集まった人の心がバラバラなのは見えてくるところだ。そこに昔からのアニメファンは気付くべきだ、「アニメ見てる?」の答えだけで自分の全てを出してしまうと引かれてしまうだろう。「椎名へきる好きだよ」でも同様である、それでYATやレイアースやドリカンやゲーム王国に話を持っていったりしたら引かれてしまう確率はかなり高い。

 盲目的にアニメに従う時代は去っていったのかも知れない(もともとあったかどうかも少々疑問があるが)。そして「みんな一緒だ」で安心していたファンの心も「みんな一緒」でなくなったら安心できない、今まで「日本人」でくくられていたのが「地球人」にされてしまうようなもの「日本人」ならまだ信用できるが「地球人全部」といわれたらそこまで信用するのは厳しい、それと同じだ。そして「アニメ」と言う壁を作って現実逃避していた人もその壁の範囲が広がってしまっては現実社会の流れとそう変わらない、さらに逃避するためにはもっと狭い範囲の壁が必要だ。

 ここで不安なのは「他への中傷」である。自分が異端だと思っている人たちは他を中傷することは滅多にないが、自分こそが正義だと思っている人は他を認めない傾向が強い。一つの表現方法になったと言うことは(この場合は認められていないと話にならないかも)「アニメ」というもの全体は「異端」でなくなったと見られるだろう。「アニメ見ているけど別に変わっていると思わないし、これが普通なんじゃないの?」と言う人が増えていく。自分が普通で正しいと思っている人は平気で他人をけなす。そしてこれは今までのアニメファンにはあんまりいなかったタイプだと思う、俗に「アニメファンはやさしい」と言われるのも自分が異端だと思っている所からくるのが大きいのだと思ってる、これからは「やさしくないアニメファン」が増えていくのかと思うとぞっとする。異端同士は争うことは滅多にないが正義同士はよく戦う、かつての戦争がそうであったように。他の作品の中傷から始まり、その作品を愛する人を中傷、従来の全部見るようなファンへの中傷へと変わっていくと思えてしまうのだが。

 「周りも全員一緒」で安心できるアニメショップもイベント会場ももう安心できるフィールドではない、周りの奴らはもう何考えているのか分からない一般人とさほど変わらなくなってきて、自分に自信のない従来のアニメファンにはいづらい場所になってきたと思う。もう普通の本屋とさほど変わらない状態である。

 従来の「逃げている」アニメファンはどこへ行けばいいのでしょうか…?


#書いてわかったんだけどこれ「異端」の話を先に書かなければならなかったのかも。
#書いてわかったんだけどこれ完全に「従来の逃げているアニメファン視点」だね…。
#自分に自信がある方でも書けなくないけど…、そういう人は正義を振りかざしに来るからいいか。
#強引な論理展開もかなり多く見られるな…論点がずれたような気もするし…(いつものことだけど)


1997/12/05 「今日のこどちゃ」

 今日のこどちゃには結構不満がある(今日は不満ばっかりだ…)。ま、順番に。

  1. 白イルカが邪魔なのー

     ま、一応ね。ばびっとの時と同様、賛否両論だろうなぁ…。とりあえずもうシリアスモード大爆発なんだから、つっこみなんかできないんだって。EDがPINCHIに変わったときからそれは決まっていたことなんだってのに(そのことについて詳しく聞きたければ私にその旨をお伝え下されば、書きます。時期をのがしたので書きにくいのだ)。

  2. 絵が明るい

     今回は登場キャラがみんな傷ついてしまう回だというのに、空は明るいわ、ばびっとはよく動くわで、シリアスシーンがうまいこと伝わってこない。ここはキャラシンクロを取らなければいかんだろうに。紗南の、羽山の、そして風花の追いつめられている感情というものを伝えなきゃイケナイのにさ…。

  3. (今回の一番の問題、というかやって欲しかったこと)ED「PINCHI〜Love me Deeper〜」が活かされていない!

     今回使わずいつ使うと言うんだ、いまのED。ナオナオで引くんじゃないって。今回は風花が羽山を振った貴重な回なのに。♪他の娘と私は違うよぉ〜♪(TVサイズにはないけど、ここは入れて欲しかった)とか ♪私一人をそう愛してぇ〜♪とか ♪グッと突き放つこの目に、驚いてあなたは黙ったね〜♪ とか思いっきり心に突き刺さるはずなのに…。
     この回でうまいこと使わないとせっかくこのEDにしたというのに、全く意味をなさないではないか!

 以上3点。まあ久しぶりに生で見たし、今日はモノラルテレビで見るしかなかったからいまいち感情移入ができなかったのかも知れない。でもこの回、作り方によっては歴史に残る名作にもなったかも知れなかったなって思う。残念。

 反論、待ってます。


1997/12/05 「蘇る約束」

 そんなつもりはなかったんだけど連ちゃんになってしまった、大運動会の話。1話とばして第10話「蘇る約束」のお話。

 今回の感想は(実は前回も)「いかん!!」なんだよ。ここに来て失速してきた感じもしてしまう。まあTVアニメ作品においてこの失速は仕方がないと言えば仕方がないんだけど、特にこのアニメ大量時代においてはさ。でもストーリーものでストーリーに絡むところでそれをやられるのは困りもの…。

 何がいかんのかと言えば、努力の見返りと怠惰の報復がないことそして「自分のため」を少しも出さずに勝ってしまうことおまけに作画が悪いこと(笑)。今回あかりは三ヶ月も訓練をさぼったあとの試験だったはず、いくら才能を秘めていたとしても3ヶ月の穴をふさぐのは並大抵の事じゃないはず、それに遠泳と自転車の途中まであかりは完全に腐っていた、なんと言ってもビリだよビリ、いくら本気を出したからって(まだ本気じゃないと思うけど)トップまで行くのはちょっと...。それと25日の日記で心配しているようにあかりはまだ自分のために走っていない、こんな逃げ場を求めているだけの走りで一番になられた日にゃあ…、才能もなく努力している方のみにもなってくれっつーんだ。

 その点今回一番つらかったのはジェシーだね〜。自分の最大限の(はずだった)努力を「御堂ともえ」という才能だけで無視されてしまった…。彼女はまた「御堂ともえ」の壁を感じていることだろう…。

 いっちゃんにもちょっと不満がある。あそこは励ますんじゃなくて叱るべきではなかったのだろうか、たとえあのまま腐ってしまったとしても。あかりがただ一乃の亡霊を追っているだけなのはわかったはずなのに、自分のために走ることを教えずに、逃げることを許してしまった。これは問題だ。しかし一乃は訓練校を去る時に所詮あかりはあかりでしかなかったことを感じてしまったので諦めていたのかも知れない、でもそれって(一般的な)本当の友情じゃない!友達ならもっと…もっとさ……。

 と、ここまでけなすだけけなしてきたけど、まあ今回で終わりじゃなくて大学衛星編が控えているので、ここであまりにもあかりが成長してしまうと話が作れなくなってしまうから、致し方ないと言うしかないと感じている。

 それと今回の一番の言いたかったことは「御堂ともえの力」だと思う。もし御堂ともえがあかり達のいる時代に存在していたならば進歩しているであろう訓練校の設備を使用していたならば、ジェシーなんて話にならないくらいの力の持ち主になったはず。いくら腐っていても御堂ともえの力さえあれば今のジェシーなんぞ眼中にない、御堂ともえの力はそこもでも強大である。見ていてそれを感じずにはいられなかった…。


1997/11/25 「沈みゆく才能」

 タイトルでぴんと来た人、はまってますね(ニヤ)。そうです大運動会の話、今回は第8話「沈みゆく才能」のお話。伝言板に書いてもよかったんだけど、あんまり話を重くするのもなんだし、大運動会の話ばっかりする訳にもいかないのでね。あ、レスは伝言板にバリバリどうぞ、引用も著作権法にて認められている模様なのでどうぞご自由に。

 とりあえず全体の話から。この作品、前情報やら見た目などから「男性向けのくだらないギャルもの」と言うイメージしか持てなかったんだけど、始まってからは何かそれは違う、そんな要素はほんの少ししかなく、はっきり言ってしまえばどうでもいいモノにまでなっているとさえ感じられる。

 じゃあ一体何が描かれているのだろう...? 私が思うところ、それは「心」人間の心でございます…オーッホッホホホ(←バカ(笑ゥ))。私は心のきちんと描かれたアニメにはすごく弱い傾向があるので、ひかれるときはほぼここに原因があるんですけど。てなわけでそれがあると語りたくなってしまうのも世の常。

 キャラクターといえどそこに描かれているのは意志も夢も希望もある「人間(のようなもの)」でなければならないはずだし、それが現代(に近い)の場合は特に「心」をないがしろにすると「説得力」に欠けてしまうと思う。よくある完全異世界ものが陥りやすいのもそこだ、「異世界」ゆえにそこにいる人々は「異世界人」、こちらの考えなど通じなくても大丈夫 …な訳なく、「共感」の持てないものは「はいはい、あんたらは大変かもしれないけどこっちには関係ないし、危機感なんてものも伝わってこねーよ。」みたいな状態になりかねない。キャラクターに心を与えずに、シリアスにはなれないと思う。まあギャグものなら心が不要な場合も多いにあり得ると思うけど。

 と言うわけで、「心」に観点を置いて今回の「沈みゆく才能」の話。

 前々回「帰還」でいっちゃんのために再び走ることを決めたあかりではあったけれども、それは所詮「いっちゃんのため」であったからもし一乃が走れなくなったらあかりは走れなくなってしまうのでは? と少し心配していたのは「帰還」の時の伝言板の書き込みでも少し触れていることだけれど、これが現実のものとなってしまった。

 一乃は自分との勝負のせいで卒業試験を受けられないほどのケガを負ってしまった、自分のせいとは感じているものの自分の何が悪かったのかわからないあかりは一乃に対して掛ける言葉が見つからない。一乃は自分の心の未熟さを悔やんではいるものの、自分から謝ってもどうにもならないことを知っていてひたすらあかりの言葉を待っている、しかし向こうから来れば言わなければならないことがあるんだ、あかりに走っていて欲しいし自分の中のあかりを友達のままにしておきたいから…。

 結局あかりは一乃の部屋の前まで来て去ってしまった、所詮あかりはあかりでしかなかったと言うことなのか...そんなことを一乃の表情から見ることが出来た。「地獄の業火に焼かれても…(by金田一)」のように自分の心が醜くなりいつしかあかりを恨んでしまう自分を嫌った一乃はあかりの前から消えることを決める。こんな結果にしたくなかったからあかりからの言葉を待っていたのに…。前に進め!とはもう言えないけど前に進んで欲しい…、自分と会う前のあかりに戻ってでも進んでくれ…。
 だからあかりハウスを直して行ったんではないかと思う。

 しかし一乃がいなくなって走る意味を完全に見失ってしまったあかりは部屋にこもって腐ってしまった。友と別れたくなくて再び走り始めたのに、そのことで友を失ってしまった…。そんなやり場のない悲しみが彼女を包んでいることでしょう…。しかし一乃とのたった一つのつながりである今の環境から逃げることもできず、ただただ腐っている事しかできない…。

 しかしあかりはなぜか卒業試験「トライアスロン」に現れた。何故進むのかわからず進んでいるあかりはまるで亡霊のようであるが、ここには一乃のためでない自分のために進む兆しのようなものが取れると言えなくもない。走ることの中に「自分」というものが感じられる瞬間を少しでも見つけているから、そこに自分を救うすべが隠れているかも知れない…と心の奥で思っているから試験場に現れたと感じられるから。

 こういう誰も悪くないのにつらい状態になっていく様…、ママレを思い出す...世の中不条理なことも多々か…。

 でも、あの時あかりから「私、まだ走るよ」的な言葉があれば二人は友人同士に戻れたのであろうな...。いっちゃんのため以外の目的を見いだすにはまだまだ時間が必要だったのか…。


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